ほかのあらゆる学問が絶えず進歩しているのに、「知恵そのもの」を名乗り、誰もがその答えを求めている形而上学だけが、いつまでも同じ場所をぐるぐる回り、一歩も前に進めていないというのは、ほとんど滑稽にさえ思えます。
そのため、形而上学を本気で研究しようとする人は次第に減ってしまいました。
ほかの分野では優れた能力を発揮できると自信を持っている人でさえ、形而上学の世界では自分の評判を賭けてまで研究しようとはしません。
なぜなら、この分野では、ほかのことについてほとんど何も知らない人であっても、まるで専門家のように最終的な判断を下すことができてしまうからです。
それは、形而上学にはまだ、
「これは確かな知識である」
「これは中身のない浅い議論にすぎない」
と見分けるための、共通の基準が存在していないからです。
しかし、ある学問を築いていく過程で、
「この学問は、いったいどこまで進歩したのだろうか?」
と人々が疑問を持つようになり、やがて、
「そもそも、この学問は本当に可能なのか?」
「もし可能なら、どのようにして可能なのか?」
という問いに行き着くことは、決して不思議なことではありません。
深掘り解説
この一節は、かなり辛辣です。
カントは形而上学について、
「ほかの学問は前進しているのに、形而上学だけ何百年も同じところを回り続けているではないか」
と批判しています。
しかも形而上学は、どうでもいい小さな分野ではありません。
神、魂、自由、世界、人間の存在といった、まさに「究極の知」を扱う学問です。
だからこそカントは、その停滞を余計に問題視しています。
「知恵そのもの」を名乗っているのに進歩していない
原文では形而上学を、
Wisdom incarnate
と表現しています。
直訳すれば「知恵の化身」です。
これは少し皮肉を込めた言い方です。
形而上学は昔から、
「世界の根本原理とは何か」
「本当の存在とは何か」
「神とは何か」
といった、最も深い問いを扱ってきました。
いわば、
あらゆる知識の中でも、最も高い知識を扱っているつもりの学問
です。
ところが実際には、
数学は進歩する。
自然科学も進歩する。
新しい発見が積み重なり、過去よりも知識が増えていく。
それなのに形而上学だけは、
同じ問題を何度も繰り返している。
自由意志はあるのか。
世界には始まりがあるのか。
魂は存在するのか。
神は存在するのか。
何百年たっても、同じ論争が続いています。
カントからすると、
「最高の知恵を名乗っている学問が、一番進歩していないではないか」
というわけです。
「同じ場所をぐるぐる回っている」
この表現も重要です。
カントは単に、
「形而上学は進歩が遅い」
と言っているのではありません。
もっと厳しい。
進歩していないどころか、同じ議論を繰り返している
と言っています。
たとえば、
ある哲学者が一つの体系を作る。
次の哲学者がそれを否定する。
さらに次の哲学者が別の体系を作る。
その体系もまた否定される。
しかし、
「ここまでは確定した知識です」
という共有財産が増えていかない。
科学であれば、
昔の学説が修正されたとしても、それまでの成果を土台にして次へ進めます。
形而上学の場合は、
毎回ほとんど最初からやり直しているように見える。
カントはそこに危機感を持っています。
なぜ優秀な人ほど形而上学を避けるのか
カントはさらに面白いことを言っています。
ほかの学問で優秀な能力を発揮できる人たちほど、
形而上学にはあまり近づかなくなった、と。
なぜか。
何が正解なのかを判定する基準がないからです。
数学なら、証明があります。
自然科学なら、観察や実験があります。
もちろん簡単ではありませんが、
「どちらの主張の方が妥当か」
を検討する一定のルールがあります。
ところが形而上学には、それがない。
すると、
十年研究した哲学者の意見と、
ほとんど何も勉強していない人の意見が、
外から見ると同じように並んでしまう。
「あの世はあると思う」
「いや、ないと思う」
「人間は自由だ」
「すべて運命で決まっている」
と、誰でも言えてしまう。
カントは、
それでは学問にならない
と言っているわけです。
「重さと尺度がない」という比喩
この一節の核心の一つが、
no standard weight and measure
です。
つまり、
共通の「重り」と「物差し」がない
ということです。
たとえば商売で、
一人は「これは1kgです」と言い、
別の人は「いや2kgです」と言う。
でも秤がなければ決着しません。
形而上学も同じです。
Aさんが、
「私は理性によって神の存在を証明した」
と言う。
Bさんが、
「そんな証明は成立しない」
と言う。
では、どちらが正しいのか。
それを測る共通の「秤」がない。
だからカントは、
形而上学そのものを議論する前に、その判定基準を作る必要がある
と考えます。
そして、その基準を作ろうとするのが、
『純粋理性批判』であり、『プロレゴーメナ』なのです。
「確かな知識」と「浅いおしゃべり」をどう見分けるのか
原文では、
sound knowledge from shallow talk
とあります。
かなり露骨です。
つまり、
本当に確かな知識と、もっともらしいだけの話を区別できない
という問題です。
これは形而上学にとって致命的です。
学問であるためには、
「何が正しいか」
だけではなく、
「なぜそれが正しいと言えるのか」
が必要です。
そして、
「この方法で確かめれば、誰でも同じように判断できる」
という基準が必要です。
カントは、
形而上学にはまだそれがない、と見ています。
だから彼は、
個別の形而上学説を増やすのではなく、
そもそも人間の理性が、何をどのような条件で知ることができるのか
を先に調べようとします。
ここで「認識能力の検査」につながる
これまでの流れをつなげると、カントの発想がよく見えます。
形而上学では意見が割れる。
なぜ割れるのか。
判定基準がないから。
では、その判定基準はどこから作ればよいのか。
そこで、
人間が知識を得る仕組みそのものを調べる
必要が出てきます。
つまり、
「神がいるか」
を先に論じるのではなく、
「人間の理性は、そもそも神について知識を持つことができるのか?」
を調べる。
「世界に始まりがあるか」
より先に、
「人間は世界全体について知ることができるのか?」
を調べる。
これがカントの方法です。
「その学問はどこまで進歩したのか?」から「そもそも可能なのか?」へ
最後の部分は特に重要です。
普通なら、
「形而上学はどこまで進歩したのだろう?」
と考えます。
しかし調べてみると、
「いや、ほとんど進歩していないのでは?」
という疑問が出てくる。
すると次に、
「そもそも、この学問のやり方自体に問題があるのではないか?」
という問いになります。
そして最終的には、
「形而上学という学問そのものは、本当に可能なのか?」
という根本問題に到達する。
カントはこれを、
「別に奇妙な問いではない」
と言っています。
むしろ、学問が何百年もうまくいっていないなら、
その学問の前提自体を調べるのは当然だ
というわけです。
この一節の核心
この一節を簡単にまとめると、
「形而上学には、正しい知識と単なる意見を見分ける共通の基準がない。だから何百年たっても進歩できない。ならば、個別の問題を議論し続ける前に、そもそも形而上学が学問として可能なのか、その条件を調べるべきだ」
ということです。
ここでカントの問題意識はかなり完成してきます。
彼が欲しいのは、新しい形而上学説を一つ追加することではありません。
「私の説こそ正しい」
と論争に参加するのでもない。
まず、
何をもって「知っている」と言えるのか。
人間の理性には何ができるのか。
どこから先は、知識ではなく推測になってしまうのか。
その「物差し」を作ろうとしているのです。
そう考えると、『プロレゴーメナ』は形而上学の本であると同時に、
「人間が“知っている”とは、そもそもどういうことなのか」を調べる本
でもあると見えてきます。