学者の中には、古代から現代までの「哲学の歴史」を研究することが、そのまま哲学だと思っている人たちがいます。
しかし、この『プロレゴーメナ』は、そういう人たちのために書かれたものではありません。
そういう人たちは、「理性そのもの」という源泉から、自分自身で答えを引き出そうとしている人たちが仕事を終えるまで待っていればよいのです。
その仕事が終わったあとで、「何が成し遂げられたのか」を世の中に伝える。それが哲学史家の仕事です。
残念ながら、そういう人たちから見れば、どんなことを言っても、
「それは昔、すでに誰かが言っている」
ということになってしまいます。
しかも、この状況はこれから先も変わらないでしょう。
人間の理性は、何世紀にもわたって、ありとあらゆる問題について、さまざまな仕方で考え続けてきたからです。
ですから、どんな新しい考えが登場しても、過去の誰かの言葉の中から、それによく似たものを見つけようと思えば、たいてい見つけることができるのです。
深掘り解説
この一節でカントは、かなり強烈に、
「哲学について知っていること」と「哲学すること」は違う
と言っています。
前の一節では、
「『プロレゴーメナ』は、完成した形而上学を教えるための本ではなく、形而上学という学問そのものを発見するための本だ」
と宣言していました。
今回はさらに一歩進んで、
過去の哲学者が何を言ったかを調べているだけでは、新しい哲学は生まれない
と言っているわけです。
「哲学史=哲学」ではない
たとえば、ある人が、
「プラトンはこう言った」
「アリストテレスはこう考えた」
「デカルトはこう主張した」
「ライプニッツにはこんな考えがあった」
ということを膨大に知っていたとします。
もちろん、それは非常に高度な知識です。
しかしカントからすると、
それだけではまだ“哲学している”とは言えない。
なぜなら、その人は「他人が考えたこと」を知っているだけだからです。
哲学者が本当にやるべきなのは、
「では、理性そのものから考えたとき、本当のところはどうなのか?」
と、自分自身で問い直すことです。
ここに出てくる
the fountain of reason itself
「理性そのものの泉」
という表現は、とても象徴的です。
カントが求めているのは、過去の書物から答えを拾ってくることではありません。
人間の理性そのものを源泉として、そこから答えを汲み上げること。
それこそが哲学だ、というわけです。
哲学史家は「あとから来る人」
カントは少し意地悪なくらいに、
「哲学史家は、哲学者が仕事を終えるまで待っていればよい」
と言っています。
哲学者がまず新しい問題を考え、新しい体系を作る。
そのあとで哲学史家が、
「この時代にカントという人物がいて、こんな仕事をしました」
と記録する。
つまり、
哲学史家は“すでに起きた哲学”を整理する人であり、哲学そのものを生み出す人ではない
という区別です。
もちろん、カントが哲学史の研究そのものを無価値だと言っているわけではありません。
問題にしているのは、
過去の思想を調べることだけで、哲学そのものをやったつもりになる態度
です。
「それ、昔の誰かがもう言ってるよ」という批判
後半は、今でもものすごくよくある話です。
誰かが新しい考えを出す。
すると、
「それって古代ギリシャにも似た考えがあるよ」
「〇〇も同じことを言っている」
「新しくないよ」
と言う人が出てくる。
カントは、これに対して、
「そりゃ探せば似たものくらい見つかるだろう」
と言っています。
人類は何千年も考え続けてきました。
しかも、愛、死、神、自由、幸福、世界、知識、道徳など、人間が考えるテーマにはある程度の共通性があります。
だから新しい思想が出たとしても、
過去の膨大な文献を探せば、似た文章や似た発想くらいは見つかります。
でも、
「似たことを誰かが言っていた」ことと、「同じ哲学である」ことは別です。
ここが重要です。
本当に新しいものは「一文」ではなく「仕組み」にある
たとえばカントが、
「私たちは世界をそのまま認識しているわけではない」
と言ったとします。
これと似た言葉を、過去の哲学者の中から探すことはできるでしょう。
しかし、だからといって、
「じゃあカントは何も新しいことを言っていない」
とはなりません。
重要なのは、その一文だけではないからです。
その考えを、どの問題から導き、どんな論証によって支え、他の概念とどう結びつけ、どんな哲学体系にしたのか。
そこに新しさがあります。
これは現代でも同じです。
誰かが新しいビジネス理論を作ったとき、
「似たことなら100年前の本にも書いてある」
と言うことはできます。
でも、その断片が昔から存在していたことと、
それを一つの原理として整理し、体系化し、新しい問題を解ける形にしたこと
はまったく別の話です。
カントはその違いを言っています。
「新しい思想なんて存在しない」という態度への反論
この部分には、もう一つ重要な意味があります。
哲学史を大量に知っている人ほど、新しい思想に出会ったとき、
「ああ、それは〇〇の変形ですね」
と既存のカテゴリーに押し込んでしまう危険があります。
すると、本当に新しいところが見えなくなる。
カントはこれを警戒しています。
過去を知っていることによって、
新しいものを見る能力を失ってはいけない。
これはかなり鋭い指摘です。
知識は本来、考えるための道具です。
しかし知識が増えすぎると逆に、
「これはすでに知っている」
「これは〇〇と同じ」
と判断してしまい、
自分自身で対象を見ることをやめてしまうことがある。
カントが批判しているのは、まさにこの態度です。
この一節の核心
一言でまとめるなら、
「哲学を学ぶこと」と「哲学すること」を混同するな。
ということです。
過去の哲学者についてどれだけ詳しくなっても、それだけでは十分ではない。
カントが求めているのは、
過去の答えを覚えることではなく、自分の理性を使って、問題そのものをもう一度考えること。
です。
そしてこれは『プロレゴーメナ』を読む姿勢そのものにも関係しています。
カントの文章を読んで、
「カントはこう言っているんだな」
と覚えるだけなら、カントがここで批判している「哲学史の勉強」に近くなります。
むしろ、
「なぜそう言えるのか?」
「本当にそうなのか?」
「自分の理性で考えても、同じ結論になるのか?」
と問いながら読む。
それが、カント自身がこの本の読者に求めている読み方だと考えると、この序文の意味がかなり深く見えてきます。