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BOOK 1 11

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子どもや子孫、友人たちに起きる出来事が、その人の幸福にまったく何の影響も与えない、と考えるのは、あまりにも冷たい考え方のように思える。

それは、普通の人々の感覚にも反している。

しかし実際には、人に起こる出来事には非常に多くの種類がある。

大きな出来事もあれば、小さな出来事もある。

本人に近い関係の人に起こることもあれば、かなり遠い関係の人に起こることもある。

それらを一つ一つ細かく調べていけば、きりがない。

だからここでは、大まかな考え方を示すだけで十分だろう。

本人に起きる不幸について考えてみても、

人生に大きな影響を与える不幸もあれば、

それほど大きな影響を与えない不幸もある。

同じように、

友人や家族に起きる不幸にも、

大きなものと小さなものがある。

また、その出来事が、

本人が生きている間に起こるのか、

それとも本人が死んだあとに起こるのかでも、

影響の大きさは違うだろう。

この違いは、かなり大きい。

たとえば悲劇の物語でも、

恐ろしい出来事が、

物語の背景としてすでに起きていたこととして語られる場合と、

実際に舞台の上で目の前で起こる場合とでは、

受ける印象が大きく違う。

それと同じように、

生きている間に起こる出来事と、

死後に起こる出来事では、

その人に与える意味も同じではない。

もっと根本的に言えば、

そもそも死者が、善いことや悪いことの影響を受けるのかどうか自体が、はっきりしない問題である。

ただ、ここまでの議論から考えるなら、

仮に死者にまで何らかの善や悪が届くとしても、

その影響はかなり弱く、小さいものだと考えるのがよさそうである。

少なくとも、

不幸だった人を死後の出来事によって幸福にしたり、

幸福だった人から幸福を奪ったりするほど、

大きな影響ではないはずである。

したがって、

友人や子孫の幸運や不運は、

死者にも何らかの影響を与えるように思われる。

しかしその影響は、

幸福な人を不幸に変えてしまったり、

不幸な人を幸福に変えてしまったりするほど大きなものではない。

深掘り解説

今回の議論は、かなり細かい話に見えます。

しかし実は、アリストテレスの幸福観を理解するうえで重要です。

前回までの議論では、

幸福とは、その人自身の「徳に従った活動」によって成り立つ

ということが中心に置かれていました。

だったら、

「死後に子どもが成功しようが失敗しようが、本人には一切関係ない」

と言ってしまってもよさそうです。

でもアリストテレスは、そこまで割り切りません。


なぜなら人間は、

完全に一人で完結している存在ではない

からです。

親にとって、

子どもの人生。

友人にとって、

親しい友人の人生。

自分の家族や共同体。

こうしたものは、自分の人生から完全に切り離せるものではありません。

だから、

「本人さえ徳を持っていれば、家族に何が起きても一切関係ない」

という考えは、アリストテレスにとって少し不自然です。

原文では、

「あまりにも友情に欠けた考え方」

というニュアンスで述べています。


ただし、ここで難しい問題が出てきます。

影響すると言っても、

どこまで?

ということです。

自分の子ども。

孫。

ひ孫。

さらにその先。

友人。

友人の家族。

友人の友人。

どこまでも広げていけば、無限になります。

たとえば、

ある人が立派な人生を送って亡くれた。

100年後、その人の子孫の一人がひどい人生を送った。

そのせいで100年前に亡くなった人の幸福まで失われるのでしょうか。

さすがに、それはおかしい。

だからアリストテレスは、

「細かく全部決めるのは無理だから、大まかな原則を考えよう」

とします。

これは以前から何度も出てきた、

倫理学には数学のような完全な精密さを求めない

という姿勢とも一致しています。


そこでアリストテレスは、

出来事には重さが違う

と考えます。

たとえば本人に起きる出来事でも、

財布をなくした

という不運と、

大切な家族を失った

という不運では、

人生への影響がまったく違います。

同じように、

家族や友人に起こる出来事にも、

大きなものと小さなものがある。

さらに、

本人との関係が近いか遠いかでも違う。

つまり、

すべての出来事が同じ重さではない

ということです。


そして面白いのが、

生きている間に起こることと、死後に起こることは同じではない

という指摘です。

アリストテレスは悲劇の例を出します。

恐ろしい出来事が、

「昔こういうことがありました」

と説明される場合と、

舞台上で実際に目の前で起きる場合では、

観客が受ける衝撃は違います。

同じ出来事でも、

距離が違えば影響も違う。

それと同じで、

本人が生きている間に、

「自分の子どもに大きな不幸が起きた」

という場合と、

本人が亡くなった50年後に、

子孫に何かが起きる場合では、

同じ重さで本人の幸福に影響するとは考えられない。


ここからアリストテレスは、

かなり慎重な立場を取ります。

「そもそも死者に善悪が届くのかどうか、はっきり分からない」

と認める。

これは面白いところです。

無理に、

「絶対に影響する」

とも、

「絶対に影響しない」

とも言わない。

哲学的に断定できない部分は、そのまま残します。


しかし、

仮に何らかの影響があるとしても、

それは、

幸福の本体を変えてしまうほど強いものではない

と考えます。

ここが今回の結論です。

たとえば、

ある人が、

徳に従って生き、

良い友人を持ち、

人生全体として立派に生きて亡くれたとします。

その後、

子孫が失敗した。

だからといって、

その人の人生全体が突然、

「やっぱり不幸な人生でした」

に変わるわけではない。

反対に、

非常に悪い人生を送った人がいて、

死後に子孫が大成功した。

だからといって、

その人自身の人生が、

「実は幸福でした」

になるわけでもない。


この議論を見ると、

アリストテレスが幸福の中心をどこに置いているかが、もう一度はっきりします。

中心は、

本人自身の活動と生き方

です。

家族。

友人。

財産。

運。

死後の評判。

こうしたものも無関係ではありません。

しかし、

幸福の中心そのものではない。

だから外的な出来事には、

幸福を少し増減させる力はあっても、

その人の人生全体を簡単に逆転させるほどの力はない。


ここまでの議論を整理すると、アリストテレスの幸福には、

中心と周辺

があると考えると分かりやすいです。

中心にあるのは、

徳に従った活動。

これは幸福の本体です。

その周辺に、

友人、

家族、

健康、

財産、

社会的な立場、

幸運や不運

などがある。

そしてさらに遠いところに、

死後の子孫の運命や、

死後の評判

などがある。

中心から遠くなるほど、

幸福に対する影響は弱くなる。

そんなイメージです。


これは、人間関係についてのアリストテレスの見方にもつながっています。

人間は、

「自分だけ良ければそれでいい」

という存在ではありません。

大切な人に何かあれば、自分の人生にも影響する。

だから幸福には、

他者との関係も含まれる。

しかし同時に、

他人の人生によって、自分の人生そのものが完全に決定されるわけでもない。

ここにもバランスがあります。


たとえば、

自分の子どもが失敗した。

親しい友人が大変な状況になった。

それは当然、自分の幸福にも影響します。

しかし、

「子どもが失敗した=自分の人生全部が失敗」

とまでは考えない。

アリストテレス的には、

それは幸福の一部に影響する出来事ではあっても、

その人がこれまでどのように生きてきたか

まで消してしまうものではありません。


そして今回の一節は、前回の、

「幸福な人はカメレオンのように簡単に幸福と不幸を行き来しない」

という話ともつながっています。

もし、

本人だけでなく、

子ども、

孫、

友人、

友人の家族

の出来事まで、その都度本人の幸福を完全に変えるとしたら、

幸福はますます不安定になります。

だから、

影響は認める。

でも、

幸福をひっくり返すほどのものではない。

という落としどころになるわけです。


この一節の核心をまとめるなら、

「人間は他者とつながって生きている以上、家族や友人の幸不幸が本人の幸福にまったく無関係とは言えない。しかし幸福の中心は本人自身の生き方にあるため、他人の運命によってその幸福が簡単に逆転するわけでもない。」

ということです。

さらに短く言えば、

「大切な人の人生は、自分の幸福に響く。しかし、自分の人生そのものを丸ごと書き換えるわけではない。」

というのが、今回のアリストテレスの結論です。

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