MENU

BOOK 1 9

  • URLをコピーしました!

こうしたことから、

「幸福は、学ぶことによって身につくのか」

「良い習慣を身につけることで得られるのか」

「何らかの訓練によって得られるのか」

それとも、

「神によって与えられるものなのか」

あるいは、

「ただの偶然によって手に入るものなのか」

という問題が出てくる。

もし神々が人間に何かを贈ることがあるのなら、幸福こそ神から与えられるものだと考えるのは自然である。

なぜなら幸福は、人間が手に入れることのできるものの中で、最も優れたものだからである。

ただ、この問題は別の探究に任せたほうがよいかもしれない。

しかし仮に、幸福が神から直接与えられるものではなく、

徳を身につけること、

学ぶこと、

訓練すること

によって得られるものだとしても、幸福はやはり非常に尊く、神的なものだと言える。

なぜなら幸福は、

徳ある生き方の最終的な成果であり、

人間が目指す最高の目的だからである。

そして、もし幸福が学習や訓練によって得られるものなら、それはかなり多くの人に開かれたものになる。

徳を身につける能力そのものに大きな欠陥がない人であれば、

学び、

努力し、

自分の生き方を整えていくことで、

幸福に近づくことができるからである。

そして、幸福が偶然によって与えられるより、

このように徳や努力によって得られるほうが、より望ましい。

実際、自然によって生み出されるものは、その性質に従って、できるだけ良い状態になるようにできている。

技術によって作られるものも、

理性的な原因によって生み出されるものも同じである。

まして、最も優れた原因によって生み出されるものなら、なおさらである。

それなのに、

人間にとって最も偉大で、最も立派なものである幸福だけを、

単なる偶然に任せてしまうというのは、あまりにも不自然なことである。

この問題の答えは、これまで述べてきた幸福の定義からも分かる。

私たちは幸福を、

「徳に従った魂の活動」

だと述べた。

だとすれば幸福は、ただ運よく手に入るものではなく、

実際に徳に従って活動することによって成り立つものなのである。

もちろん、幸福に関係する善の中には、

あらかじめ存在していなければならない条件もある。

また、幸福を実現するための手段として役立つものもある。

このことは、最初に述べた政治学についての話とも一致している。

私たちは最初に、

政治学の目的は、人間にとっての最高善を実現することだ

と述べた。

そして政治学は、市民がある特定の人格を持つようにすることに、大きな力を注いでいる。

つまり、

善い人間になり、

立派な行動ができる人間になるように、

市民を育てようとするのである。

だから当然、

牛や馬、そのほかの動物を「幸福である」とは呼ばない。

なぜなら動物には、

理性に従い、徳に従って活動するという、このような生き方ができないからである。

同じ理由で、子どもについても、本当の意味では「幸福な人」とはまだ呼べない。

子どもは年齢的に、まだそのような徳ある活動を十分に行うことができないからである。

私たちが、

「あの子は幸せな子だ」

と言う場合、それは現在の完成された幸福について語っているのではない。

むしろ、

「この子は将来、幸福な人生を送るだろう」

という期待を込めて言っているのである。

なぜなら幸福には、

完成された徳だけではなく、

「完成された人生」

も必要だからである。

人生では、さまざまな変化が起こる。

思いもよらない偶然も起こる。

たとえ長い間とても恵まれた人生を送っていた人でも、

老年になって大きな不幸に見舞われることがある。

たとえば、トロイア戦争の物語に登場するプリアモス王がそうである。

彼はかつて非常に繁栄した王だったが、

晩年には国を滅ぼされ、

家族を失い、

悲惨な最期を迎えた。

このように、人生の最後に大きな不幸に見舞われ、

悲惨な形で人生を終えた人を、

私たちは「幸福な人だった」とは普通呼ばない。

だから幸福を判断するには、

徳だけではなく、

人生全体を見る必要があるのである。

深掘り解説

今回の一節でまず面白いのは、

「幸福は努力で得られるのか、それとも運なのか」

という、かなり現代的な問いが出てくるところです。

前回までの議論では、

幸福には徳が重要だけれど、

友人や財産などの外的条件もある程度必要だ、

という話になっていました。

すると当然、

「それなら幸福って、自分で作れるものなの?」

という疑問が出てきます。

どれだけ徳を身につけても、

生まれた環境、

事故、

病気、

戦争、

周囲の人々、

さまざまな偶然

によって人生は左右されます。

では結局、

幸福とは運次第なのか。

アリストテレスは、この問いをここで扱っています。


まず、

神から与えられる幸福

という可能性には、完全には否定的ではありません。

もし神々が人間に何か重要なものを与えるなら、

最高善である幸福こそ、神から与えられるものだと考えるのも自然だ、

と言っています。

ただし、そこで深入りはしません。

アリストテレスが今知りたいのは、

人間が実際にどう生きれば幸福になれるのか

だからです。


そして重要なのが、

仮に幸福が神から直接与えられるものではなかったとしても、

学習や訓練や習慣によって得られる幸福は、それでも十分「神的」で尊い

と言っているところです。

つまり、

神から突然プレゼントされるから尊いのではない。

人間の能力を最もよい形で完成させるものだから尊い。

幸福とは、

徳を身につけ、

理性を働かせ、

優れた活動を続けることで到達するもの。

それ自体が、人間にとって最高の完成だからです。


ここで、かなり希望のあることも言っています。

もし幸福が、

徳を身につけることによって得られる

のなら、

かなり多くの人が幸福になれる可能性がある。

生まれつき特別な天才である必要もない。

神に特別に選ばれる必要もない。

極端に言えば、

「徳を身につける能力があり、それを育てようとする人なら、幸福に近づける」

ということです。


ここは、アリストテレス倫理学の教育論ともつながっています。

これまで何度も、

良い習慣、

教育、

繰り返しの行動

が重要だという話が出てきました。

なぜなら徳は、

単なる知識ではなく、

人格として身につけるもの

だからです。

たとえば、

「正直であることは大切です」

と知っているだけでは徳ではない。

実際に、

正直に行動し、

それを繰り返し、

やがて正直に行動することが自然になる。

そうやって人格が形成されていきます。

つまりアリストテレスにとって、

幸福は生まれつき完成しているものではなく、育てることのできるもの

なのです。


そして、ここでかなり重要な主張が出てきます。

「人間にとって最も重要な幸福を、単なる偶然に任せるような世界は不自然ではないか」

という考えです。

これはアリストテレスの世界観でもあります。

自然のものには、

それぞれにふさわしい完成があります。

種は成長して植物になる。

目は見るためにある。

人間の理性にも、それにふさわしい完成がある。

それなのに、

その完成である幸福だけが、

完全な運任せだとしたら、

妙なことになります。

だから幸福の中心部分は、

本人の活動や人格に依存する

と考えるのが自然だというわけです。


ただし、

「幸福は100%自分次第」

とまでは言っていません。

ここが大切です。

前回と同じく、

外的な善の存在を認めています。

アリストテレスは、

幸福に必要なものを大きく分けて、

幸福そのものを作るもの

と、

幸福を支える条件や道具

に分けて考えています。

幸福そのものは、

徳に従った魂の活動。

しかし、その活動を行うには、

友人、

ある程度の財産、

健康、

社会的条件

などが必要になる場合がある。

つまり、

人生の中心は自分の生き方だが、環境も無関係ではない。

このバランスがアリストテレスです。


そしてここで、最初に出てきた政治学の話に戻ります。

『ニコマコス倫理学』の冒頭で、

政治学の目的は、

人間にとっての最高善を実現すること

だと述べていました。

なぜ政治や教育が重要なのか。

それは、

人が徳を身につけられる環境を作るため

です。

良い法律、

良い教育、

良い習慣、

良い共同体。

こうしたものを通じて、

市民が、

善い人格を持ち、

実際に善く行動できるようにする。

だから政治の本当の目的は、

単に社会を維持することではなく、

「善く生きられる人間を育てること」

だとアリストテレスは考えています。


次に、

なぜ動物は幸福ではないのか

という話が出てきます。

現代の感覚では、

「幸せそうな犬」

とか、

「幸せな猫」

という言い方を普通にします。

しかしアリストテレスが言う「幸福」は、

気分が良いという意味ではありません。

エウダイモニアとは、

人間としての能力を十分に発揮し、人生全体を善く生きること

です。

だから、

快楽を感じられるだけでは足りません。

理性を使い、

徳に従って行動し、

人生を形成していく必要があります。

その意味では、

動物は幸福の主体にはならない、

というわけです。


そして、子どもも同じです。

これも、

「子どもは幸せではない」

という意味ではありません。

子どもは当然、

楽しいこともあり、

喜びもあります。

ただしアリストテレスの意味での、

人生全体として完成した幸福

については、

まだ判断できない。

なぜなら、

まだ人格も完成していない。

徳も十分に活動していない。

そして何より、

人生そのものがまだ途中だからです。

だから子どもを、

「幸福な人生を送った人」

とは言えない。

私たちが子どもについて「幸せだ」と言うときは、

未来への期待

を含んでいるということです。


ここから、

「完成された人生」

という重要な条件が出てきます。

前の箇所でも、

「一羽のツバメが来ても夏にはならない」

という話がありました。

今回はそれがさらに強くなります。

一時的に、

成功している。

健康である。

金持ちである。

尊敬されている。

だからといって、

まだその人の人生全体が幸福だったとは言えない。

なぜなら、

人生は最後まで変化するからです。


その例として出てくるのが、

プリアモス王

です。

プリアモスは、トロイアの王です。

長い間、

大きな国を治め、

多くの子どもに恵まれ、

非常に繁栄していました。

途中まで見れば、

「幸福な人生」

と言えるでしょう。

しかし晩年、

トロイア戦争によって、

国を滅ぼされ、

多くの息子たちを失い、

最後には自分自身も悲惨な死を迎えます。

アリストテレスはこれを、

人生は最後まで見なければ分からない

という例として使っています。


ここはかなり厳しい幸福論です。

私たちは普通、

「今、幸せなら幸せ」

と考えます。

しかしアリストテレスの幸福は、

現在の感情ではなく、

人生全体の完成度

です。

だから、

途中の一場面だけでは判断できない。

10年間ものすごく成功していた。

それだけではまだ足りない。

逆に、

一時期大変なことがあった。

それだけで、

人生全体が不幸とも限らない。

幸福という評価には、

時間の厚み

が必要なのです。


ここで少し面白い緊張関係が生まれています。

アリストテレスは、

一方では、

幸福は徳や努力によって得られる

と言う。

しかしもう一方では、

人生には運や偶然も影響する

と言う。

では結局、

自分次第なのか、

運次第なのか。

答えは、

どちらか一方ではない

です。


アリストテレスにとって、

幸福の中心は、

自分の人格と行動

です。

ここは自分で育てられる。

しかし、

その活動を完全に実現できるかどうかは、

外部の出来事にもある程度左右される。

だから、

幸福は完全な自己責任でもなければ、完全な運任せでもない。

この中間にあります。


かなり簡単に言えば、

アリストテレスは、

「良い人生を作る力は人間にある。しかし、人間は世界から独立して生きているわけではない」

と言っているわけです。

自分の人格は育てられる。

行動も選べる。

しかし、

他人、

社会、

病気、

災害、

死、

偶然

まで完全には支配できない。

幸福とは、

その現実の中で、

できるだけ徳に従って生き続けることです。


そして今回の一節は、次の問題にもつながっています。

もし、

人生が終わるまで幸福だったか分からない

とすると、

「生きている間に幸福だと言える人はいるのか?」

という疑問が出てきます。

さらに、

「死後に子どもや子孫が不幸になったら、その人の幸福まで変わるのか?」

という問題まで出てきます。

アリストテレスはこのあと、そのあたりをさらに細かく検討していきます。


この一節の核心をまとめるなら、

「幸福は単なる幸運ではなく、徳を学び、習慣化し、実際に生きることで育てていける。しかし人生には偶然もあるため、幸福は一瞬ではなく、一生全体を通して考えなければならない。」

ということです。

さらに短く言えば、

「幸福は“当たるもの”ではなく、“生きて作るもの”。ただし、その人生は世界との関係の中で最後まで続いていく。」

というのが、今回のアリストテレスの考えです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次