ここで、「すべての善に共通する普遍的な善」という考えについて検討しておいたほうがよいだろう。
ただ、この問題を論じるのは私にとって少しつらい。
なぜなら、そのような「善のイデア」を唱えたのは、私たちの親しい仲間たちだからである。
それでも、真理を守るためなら、親しい人々の考えであっても批判することが、哲学者には必要だろう。
友人も真理も、どちらも大切である。
しかし、真理のほうをより大切にすることが、哲学者として正しい態度である。
さて、イデア論を唱えた人々自身も、「前のもの」と「後のもの」という上下関係があるものについては、それらすべてを一つにまとめる共通のイデアを立ててはいなかった。
たとえば、すべての数をひとまとめにする「数そのもの」という一つのイデアを置かなかったのも、そのためである。
ところが「善」という言葉は、実にさまざまな意味で使われている。
あるものの「存在そのもの」について善いと言うこともあれば、
その性質について善いと言うこともあり、
何かとの関係について善いと言うこともある。
しかも、あるものそれ自体として存在するものは、何かとの関係によって成り立つものより、根本的な意味では先にある。
関係というものは、その存在から派生してくるものだからである。
そうである以上、このように種類の異なるすべての「善」の上に、一つの共通した「善のイデア」があるとは考えにくい。
さらに、「善」という言葉には、「存在」という言葉と同じくらい多くの使われ方がある。
たとえば、
存在そのものについて言えば、神や理性が善いと言われる。
性質について言えば、徳が善いと言われる。
量について言えば、適度であることが善いと言われる。
関係について言えば、役に立つことが善いと言われる。
時間について言えば、ちょうどよい時機が善いと言われる。
場所について言えば、適切な場所が善いと言われる。
このように、「善」はさまざまな種類のものについて語られている。
したがって、「善」がすべての場合に共通する一つのものだとは考えられない。
もし本当に一つのものなら、「善」は一種類のものについてしか語れないはずだからである。
また、一つのイデアに対応するものには、一つの学問があるはずである。
もしすべての善が一つの「善のイデア」に属するなら、あらゆる善について一つの学問が存在するはずだ。
しかし実際には、そうなっていない。
たとえば、「適切な時機」という同じような善についてさえ、
戦争における適切な時機は軍事戦略が研究し、
病気における適切な時機は医学が研究する。
また、「適度」ということについても、
食事の適量は医学が研究し、
運動の適量は体育の技術が研究する。
このことからも、あらゆる善を一つの学問で扱うことはできないと分かる。
そもそも、「○○そのもの」という表現によって、いったい何を意味しているのだろうか。
たとえば、
「人間そのもの」と、
実際に存在する一人ひとりの人間では、
「人間である」という点についての意味は同じである。
人間であるという点だけを見れば、両者に違いはない。
だとすれば、
「善そのもの」と、
実際に存在する個々の善も、
善であるという点では、違いがないことになる。
また、「善そのもの」が永遠に存在するからといって、そのことによって、より善くなるわけでもない。
長い間白いものが、一日しか白くないものより「より白い」わけではないのと同じである。
この点では、ピュタゴラス派のほうが、まだ納得しやすい説明をしているように思える。
彼らは「一」を善いものの側に置いた。
スペウシッポスも、この考え方に従ったようである。
ただし、この問題については、別のところで詳しく論じることにしよう。
ここまでの私の批判に対して、次のような反論が考えられるかもしれない。
プラトン派が言っているのは、あらゆる意味での「善」が一つのイデアによって善なのだ、ということではない。
それ自体のために求められるものだけが、本来の意味で「善」と呼ばれる。
そして、それらを生み出したり、守ったり、その反対を防いだりするものは、それらとの関係によって二次的な意味で「善」と呼ばれる。
そう考えることもできる。
だとすれば、善には二種類あることになる。
一つは、それ自体として善いもの。
もう一つは、それ自体として善いものの役に立つために善いもの。
それなら、役に立つだけの善はいったん除いて、
「それ自体として善いもの」に、本当に一つの共通したイデアがあるのかを考えてみよう。
では、「それ自体として善いもの」とは何だろうか。
たとえば、
知性、
見る能力、
ある種の快楽、
名誉
などだろうか。
これらは、ほかの何かのために求めることもあるが、それだけであっても求める価値がある。
だから、「それ自体として善いもの」に含めてもよいだろう。
それとも、本当にそれ自体として善いものは、「善のイデア」ただ一つなのだろうか。
しかし、そうだとすれば、「善のイデア」は現実の善とは何の関係もない空虚なものになってしまう。
反対に、
名誉も、
知恵も、
快楽も、
それぞれそれ自体として善いものだとするなら、
これらすべてに共通する「善とは何か」という説明が、同じでなければならないはずである。
たとえば、雪の白さと白鉛の白さでは、「白い」という意味は同じである。
しかし、
名誉が善いということ、
知恵が善いということ、
快楽が善いということでは、
「なぜ善いのか」という説明がそれぞれ違う。
したがって、「善」とは、一つの共通したイデアに対応するものではない。
では、なぜ私たちは、これらすべてを「善」と呼んでいるのだろうか。
まったく偶然、同じ名前がついているだけなのだろうか。
おそらく、そうでもない。
もしかすると、すべてが一つの善から生じているのかもしれない。
あるいは、すべてが一つの善に向かっているのかもしれない。
あるいは、それぞれが似た関係を持っているために「善」と呼ばれるのかもしれない。
たとえば、
身体における「視覚」と、
魂における「理性」
が、それぞれの領域で似たような役割を果たしているようにである。
ただ、この問題について正確に論じるのは、別の哲学の分野にふさわしい。
今はこれ以上深入りしないことにしよう。
「善のイデア」についても同じである。
仮に、
すべての善に共通する一つの善が存在するとしても、
あるいは、
「善そのもの」が、ほかのものとは独立して存在するとしても、
それを人間が実際の行動によって手に入れることはできない。
しかし、私たちが今探しているのは、
人間が実際に手に入れ、実現できる善
なのである。
もちろん、こう考える人もいるかもしれない。
「善そのもの」を知っておけば、それをお手本として、私たちが実際に求めるべき善も、よりよく理解できるのではないか。
そして、善を正しく理解できれば、それを実現しやすくなるのではないか。
この考えには、それなりの説得力がある。
しかし、実際のさまざまな技術や学問を見ると、そうは思えない。
どの技術も何らかの善を目指している。
そして、自分の分野で足りないものを補い、その善を実現しようとしている。
ところが、どの技術も「善そのもの」を研究してはいない。
もし「善そのもの」を知ることがそれほど大きな助けになるなら、あらゆる専門家がそれを無視し、研究さえしていないというのは不自然である。
たとえば、機織り職人が「善そのもの」を知ったからといって、どうして布を織る技術が上達するのだろうか。
大工が「善のイデア」を理解したからといって、どうして良い大工になれるのだろうか。
また、「善そのもの」を理解した人が、それだけで優れた医者や優れた将軍になるとも思えない。
医者が研究するのは、抽象的な「健康そのもの」ではない。
人間の健康であり、さらに言えば、
目の前にいるこの一人の患者の健康
なのである。
医者が実際に治療するのは、一人ひとりの具体的な人間だからだ。
この問題については、これくらいにしておこう。
深掘り解説
この箇所は少し難しいのですが、アリストテレスが言いたいことを先に一言で言えば、
「私は、“善そのもの”という抽象的な存在を探したいのではない。人間が現実の人生で実現できる善を知りたいのだ」
ということです。
そしてそのために、師であるプラトンの「善のイデア」を批判しています。
まず、冒頭がかなり有名です。
アリストテレスは、イデア論を唱えた人々を、
「私たちの友人」
と呼んでいます。
これは当然、プラトンやプラトン学派の人々を指しています。
アリストテレスは約20年間、プラトンの学園アカデメイアで学びました。
だから、この批判は敵に対する攻撃ではありません。
むしろ、
「尊敬している。しかし、尊敬しているからといって、間違っていると思うことまで受け入れるわけにはいかない」
という姿勢です。
そこで出てくるのが、
「友人も大切だが、真理をより尊重しなければならない」
という考え方です。
哲学者とは、
「誰が言ったか」
ではなく、
「それは本当に正しいのか」
を優先する人だということです。
これはアリストテレスの哲学者としての態度を非常によく表しています。
では、そもそもプラトンの「善のイデア」とは何なのか。
かなり簡単にすると、
私たちが、
「これは善い」
「あれも善い」
「これも善い」
と言えるのは、その背後に共通する、
「善そのもの」
があるからではないか、という考えです。
たとえば、
白い雪、
白い紙、
白い服
は、それぞれ違うものです。
でもすべて「白い」。
そこで、
「白さ」という共通した性質があると考えられます。
同じように、
善い人、
善い行為、
善い制度、
善い知識
がすべて善いなら、
その背後に、
「善そのもの」
があるのではないか。
これがプラトン的な発想です。
ところがアリストテレスは、
「“善”は、“白い”のようにはいかない」
と考えます。
なぜなら、「善」という言葉はいろいろな意味で使われるからです。
たとえば、
良い人間。
良い性格。
良い量。
良いタイミング。
良い場所。
役に立つ道具。
これらを全部「良い」と言います。
しかし、
「良い人間」と「良いタイミング」の“良い”は、本当にまったく同じ意味なのか?
と考えると、怪しい。
ここでアリストテレスの「カテゴリー」の考え方が入ってきます。
彼は存在について、
「それは何であるか」
「どんな性質か」
「どれくらいか」
「何と関係しているか」
「いつか」
「どこか」
など、さまざまな仕方で語れると考えます。
そして「善」も、その全部について使える。
たとえば、
実体の善 → 神、理性
性質の善 → 徳
量の善 → 適量
関係の善 → 有用であること
時間の善 → 良いタイミング
場所の善 → 適切な場所
です。
だから、
「善という一種類のものが、全部に共通して存在している」
と考えるのは無理があるのではないか、と批判します。
さらに面白い反論があります。
もしすべての善が、
一つの「善のイデア」
に属するなら、
それを研究する学問も一つであるはずだ。
ところが現実は違います。
たとえば、
「適切なタイミング」
という善を考えてみても、
戦争なら軍事学。
病気なら医学。
同じ「適切なタイミング」でも、扱う専門家が違います。
適量についても同じです。
薬の適量と、
運動の適量では、
知識がまったく違う。
つまり、
現実の善は、それぞれの領域の中で具体的に判断されている。
「善そのもの」を知っていれば全部分かる、というわけではない。
ここがアリストテレスらしいところです。
そして、
「善そのものは永遠だから、普通の善より優れている」
という考えにも反論します。
ここでの例えが面白い。
一万年間白いものが、一日しか白くないものより“白さ”が強いわけではない。
永遠に存在していることと、
「どれだけ善いか」は別問題です。
つまり、
永遠である=より善い
とは限らない。
さらにアリストテレスは、
「善そのもの」と個々の善の関係
を追及します。
仮に、
知恵、
名誉、
快楽
がすべて「それ自体として善い」としましょう。
もし一つの「善のイデア」によって全部が善いのなら、
これらの「善さ」の意味は同じでなければならない。
雪と白鉛がどちらも白い場合、
「白い」の意味は同じです。
しかし、
知恵が善い理由
と、
快楽が善い理由
と、
名誉が善い理由
は違います。
つまり、
「善」という言葉は一つでも、
それが善い理由は同じではない。
だから、
「全部に共通する一つの善が存在する」
とは簡単には言えないわけです。
ただし、ここでアリストテレスは、
「じゃあ、“善”という言葉は偶然同じ名前になっただけなの?」
とも考えます。
それも違うように思える。
そこで出てくるのが、
類比
という考え方です。
たとえば、
身体にとっての「視覚」と、
魂にとっての「理性」は、
同じものではありません。
しかし、
それぞれの領域で重要な働きを担っている
という点では似ています。
同じように「善」も、
まったく同じ一個のものではないが、
それぞれの領域で似た関係を持っているために、同じ「善」という言葉で呼ばれているのかもしれない。
ただしアリストテレスは、
「これは今の倫理学の本題ではない」
として深入りしません。
そしてここからが、この一節で最も重要な部分です。
アリストテレスは、
「仮に善のイデアが本当に存在したとしても、それは私たちが今探しているものではない」
と言います。
なぜなら、
『ニコマコス倫理学』で探しているのは、
人間が実際に行動によって実現できる善
だからです。
仮に天上のどこかに、
永遠不変の「善そのもの」
が存在したとしても、
それを人間が手に入れたり、実践したりできないなら、
「では、私はどう生きればいいのか」
という倫理学の問いには直接答えてくれません。
ここはアリストテレスとプラトンの哲学の違いが非常によく出ています。
かなり単純化すると、
プラトンは、
「善そのものとは何か」
へ上昇していく。
アリストテレスは、
「人間にとって善い生き方とは何か」
へ戻ってくる。
アリストテレスは抽象的な理論を嫌っているわけではありません。
ただ、
倫理学の目的は、人間の現実の生を良くすること
だと考えているのです。
そこで医者の例が出てきます。
医者に必要なのは、
「健康そのものとは何か」
という宇宙的・哲学的な知識でしょうか。
そうではない。
医者が治すのは、
「健康そのもの」
ではなく、
この患者
です。
目の前に、
熱があり、
痛みがあり、
年齢があり、
体質があり、
既往歴がある、
この具体的な人間を治す。
だから必要なのは、
現実の個別的な健康についての知識
です。
同じように、
将軍に必要なのも、
抽象的な「善そのもの」の知識ではなく、
この状況で、
どこへ兵を配置するのか、
いつ戦うのか、
いつ撤退するのか、
という具体的判断です。
これは前に出てきた、
「倫理学に数学のような精密さを要求してはいけない」
という話ともつながっています。
倫理とは、
抽象的な公式を覚えれば終わりではありません。
その場、その人、その状況に応じて、
具体的に何が善いのかを判断する
必要があります。
だから『ニコマコス倫理学』では後に、
実践的知恵(フロネーシス)
が非常に重要になってきます。
そして、この一節にはもう一つ大きな意味があります。
アリストテレスは、
「最高善」という考えそのものを否定しているわけではありません。
ここは誤解しやすいところです。
これまで、
「最高善を探そう」
と言ってきました。
今回、
「普遍的な善のイデアなどない」
と言った。
一見矛盾しているように見えます。
でも違います。
アリストテレスが否定しているのは、
すべての善に共通する、世界から独立して存在する抽象的な「善そのもの」
です。
彼が探しているのは、
人間という存在にとっての最高善
です。
つまり、
「宇宙における善とは何か」
ではなく、
「人間は、どのように生きれば最もよく生きたことになるのか」
です。
その答えとして、これから、
幸福(エウダイモニア)
の中身をさらに明らかにしていくわけです。
この一節の核心を一言でまとめるなら、
「倫理学で必要なのは、抽象的な『善そのもの』を知ることではない。私たち人間が、現実の人生の中で実現できる善を明らかにすることである。」
ということです。
そして、アリストテレスの哲学らしさをさらに短く表すなら、
「善を空の上に探すのではなく、人間の具体的な生の中に探せ。」
という方向でしょう。
ここを越えると、いよいよアリストテレスは、
「では、人間にとっての最高善=幸福には、どんな条件が必要なのか」
を本格的に絞り込み始めます。