では、少し話がそれたので、元の議論に戻ろう。
人々が実際にどのような人生を送っているかを見ると、多くの人、とくにあまり深く考えずに生きている人々は、
「善」や「幸福」とは快楽のことだ
と考えているように見える。
そして、そう考えるのにも、それなりの理由はある。
だから彼らは、楽しいことや気持ちのよいことを中心にした人生を好むのである。
人間の代表的な生き方には、大きく分けて三つあると言える。
一つは、今述べた「快楽を求める生活」。
もう一つは、「政治的な生活」。
そして三つ目が、「観想する生活」である。
多くの人々は、明らかに快楽に支配された生き方を好んでいる。
それは、まるで動物にふさわしい生き方のようにも見える。
ただし、彼らの考えにも多少の根拠はある。
なぜなら、社会的に高い地位にいる人の中にも、サルダナパルスのように、快楽を何より好む人が少なくないからである。
では、もう少し教養があり、積極的に社会の中で活動する人々はどうだろう。
そのような人々は、
「幸福とは名誉である」
と考える傾向がある。
実際、政治的な生活が目指しているものは、おおよそ名誉だと言ってよいだろう。
しかし、名誉も、私たちが探している最高善としては、少し表面的すぎるように思われる。
なぜなら名誉は、名誉を受ける本人よりも、
「その人を評価して名誉を与える人」
に左右されるものだからである。
しかし私たちが探している善は、もっとその人自身に属するものであり、簡単には奪われないものでなければならないはずだ。
さらに、人々が名誉を求めるのは、
「自分が優れた人間であることを確かめたい」
からのようにも見える。
実際、人は誰からでも褒められればよいと思っているわけではない。
知恵のある人や、自分のことをよく知っている人から、
「あなたは立派な人だ」
と評価されたいと思う。
しかも、自分の徳や人格の良さを理由に評価されたいと考える。
だとすれば、少なくともその人たち自身の考えによれば、
名誉よりも「徳」のほうが大切だということになる。
それなら、政治的な生活の最終目的は、名誉ではなく徳なのではないか、と考えることもできる。
しかし、徳だけでも、まだ十分ではないように思える。
なぜなら、徳を持っている人でも、
ずっと眠っていたり、
一生ほとんど何も行動せずに過ごしたり、
さらに、ひどい苦痛や不幸に苦しみ続けたりする可能性があるからだ。
そのような人生を送っている人を、普通は「幸福な人」とは呼ばないだろう。
よほど自分の理論を何が何でも守ろうとするのでなければ、そうは言えないはずだ。
この問題については、これくらいで十分だろう。
すでに世間でもかなり議論されているからである。
三つ目には「観想的な生活」がある。
これについては、あとで詳しく考えることにしよう。
また、お金を稼ぐことを中心にした人生について言えば、これは多くの場合、必要に迫られて営まれる生活である。
そして、富が私たちの探している最高善ではないことは明らかだ。
なぜなら、お金は何かのために役立つものであって、それ自体のために求められるものではないからである。
そう考えると、快楽や名誉や徳のほうが、まだ最高善の候補にはなりやすい。
それらは、それ自体のためにも求められるからである。
しかし、これまで見てきたように、それらもまた、本当の意味での最終目的ではない。
これらを最高善だと主張するために、多くの議論が費やされてきたが、ここではもう、この問題をいったん置いて先へ進むことにしよう。
深掘り解説
この一節でアリストテレスがやっているのは、かなり実践的です。
前の箇所では、
「人間が求める最高善は、幸福と呼ばれている」
ところまで来ました。
しかし「幸福」という名前だけ分かっても意味がありません。
そこで今度は、
人間は実際には、何を幸福だと思って生きているのか
を観察します。
その結果、大きく三つの人生が見えてくる。
快楽を中心にした人生。
名誉や社会的活動を中心にした人生。
真理を考えることを中心にした人生。
この三つです。
そして、このあとアリストテレスは、それぞれが本当に最高善になり得るのかを検討していきます。
まず最初が、
快楽の生活
です。
おいしいものを食べたい。
楽しく遊びたい。
気持ちよく過ごしたい。
不快なことは避けたい。
こうした快楽を幸福だと考える生き方です。
アリストテレスは、ここではかなり厳しい言葉を使っています。
快楽だけを追いかける人生は、
「獣にふさわしい生き方」
だとまで言っています。
ただし、これは、
「快楽そのものは悪い」
と言っているわけではありません。
ここは重要です。
後の『ニコマコス倫理学』では、アリストテレスは快楽そのものを否定しません。
むしろ、良い活動にはそれにふさわしい快楽が伴う、と考えます。
問題なのは、
「気持ちいいかどうか」だけを人生の最終基準にしてしまうこと
です。
食べる。
飲む。
眠る。
性的快楽を得る。
こうしたことだけを幸福の中心にしてしまえば、人間に特有の理性や徳を十分に使わない人生になってしまう。
だから、それでは最高善とは言えないわけです。
ここでサルダナパルスという人物が出てきます。
これは古代世界で、
豪奢で快楽的な生活の象徴
として語られた人物です。
アリストテレスが言いたいのは、
「快楽を求めるのは庶民だけではない」
ということです。
権力者や富裕層であっても、
食べる、飲む、遊ぶ、楽しむ、
ということばかりを追いかけて生きている人はいる。
だから、
社会的地位が高い=人生の目的を深く理解している
とは限らない。
ここも鋭い指摘です。
次に登場するのが、
政治的な生活
です。
ここでいう政治的生活は、現代でいう「政治家になる」という意味だけではありません。
もっと広く、
社会の中で活動し、評価され、立派な人間として認められる人生
です。
このタイプの人は、
快楽よりも、
名誉
を重視します。
人から認められたい。
尊敬されたい。
社会的に価値のある人物だと思われたい。
こうした幸福観です。
これは、快楽だけを求める人生よりも、かなり高度に見えます。
しかしアリストテレスは、それでも、
名誉は最高善ではない
と言います。
理由が非常に面白い。
名誉には、
他人が必要だからです。
自分で、
「今日から私は名誉ある人です」
と決めても意味がありません。
誰かが自分を認めてくれて初めて、名誉は成立します。
つまり名誉は、
自分の外側にある人間の判断に依存している。
今日まで尊敬されていても、
世間の評価が変われば失われるかもしれない。
権力がなくなれば、誰も寄ってこなくなるかもしれない。
しかしアリストテレスが探している最高善は、
もっと自分自身に属していて、簡単には他人に奪われないもの
のはずです。
だから名誉は少し弱い。
そしてアリストテレスは、さらに一段深く考えます。
そもそも、
なぜ人は名誉が欲しいのか?
本当に欲しいのは、
「他人から褒められること」
なのだろうか。
そうではない。
人は、
「私は立派な人間なのだ」と確認したいから名誉を求める
のではないか。
だから、誰に褒められても満足するわけではありません。
たとえば何も知らない人から、
「あなたは素晴らしい人ですね!」
と言われても、そこまで価値を感じないかもしれない。
しかし、
自分をよく知っている人、
判断力のある人、
尊敬している人
から、
「あなたは立派な人だ」
と言われると嬉しい。
なぜなら、その評価によって、
自分に徳があると確認できるからです。
ここからアリストテレスは、
「だったら、名誉より徳のほうが上ではないか?」
と考えます。
名誉は、
徳があることを証明してもらう手段
なのだとしたら、
本当に価値があるのは名誉ではなく、徳そのものではないか。
これはかなり鋭い論理です。
名誉そのものではなく、
「名誉を受けるに値する人間であること」
のほうが重要だということです。
ところがアリストテレスは、
徳さえあれば幸福なのか
というところでも止まりません。
ここも重要です。
普通なら、
「なるほど。幸福=徳ですね」
と結論を出してしまいそうです。
しかしアリストテレスは、
「いや、まだ足りない」
と言います。
なぜか。
徳を持っていても、
実際に使わないことができるからです。
たとえば、
ものすごく勇気のある人格を持っている。
しかし一生眠っている。
あるいは、何の活動もしない。
その人を「幸福な人生を送った」と呼べるでしょうか。
かなり違和感があります。
ここに、アリストテレス倫理学の中心思想が少し顔を出しています。
彼にとって幸福は、
「何かを持っている状態」だけではない
のです。
重要なのは、
実際に活動していること。
徳を持っているだけではなく、
徳に従って生きていること。
たとえば、
勇気を「持っている」だけではなく、必要な場面で勇気を発揮する。
正義について知っているだけではなく、実際に正しく行動する。
思いやりのある性格だと言うだけではなく、実際に人に対してそう振る舞う。
つまり、
幸福は「所有」ではなく「活動」にある
という方向へ議論が進み始めています。
これは、この後の「幸福とは徳に即した魂の活動である」という有名な結論につながっていきます。
さらにアリストテレスは、
徳を持っているだけでは、
ひどい不幸に遭った場合
にも問題が残ると言います。
たとえば、
人格的には素晴らしい。
しかし一生、
極端な苦痛、
大きな喪失、
悲惨な出来事
ばかりに見舞われた人がいたとします。
その人を、
「最高に幸福な人生だった」
と簡単に言えるだろうか。
アリストテレスは、そう単純には考えません。
ここが、後のストア派などとの違いにもつながります。
徳は幸福にとって決定的に重要です。
しかし、
幸福にはある程度、外的な条件も関係する
とアリストテレスは考えていきます。
そして三つ目が、
観想的な生活
です。
ここでは詳しく扱いません。
アリストテレスは、
「これは後で考える」
と言っています。
なぜなら、この観想的生活こそ、最終的には非常に重要になるからです。
観想とは簡単に言えば、
真理を理解し、物事を深く考える活動
です。
哲学することも、その代表です。
『ニコマコス倫理学』の終盤になると、アリストテレスは、
観想的な生活こそ、人間にとって最も高い幸福なのではないか
という方向へ進んでいきます。
ただし、今はまだ結論を出しません。
そして最後に、
お金を稼ぐ人生
について触れます。
アリストテレスは、これはかなり簡単に退けます。
理由は、
お金は明らかに手段だからです。
お金そのものを食べることはできない。
お金そのものに住むこともできない。
お金そのものと友情を築くこともできない。
お金は、
食べ物を買うため、
家を得るため、
自由を得るため、
好きな活動をするため、
何か別のことのために使います。
だから、
富には必ず「その先」がある。
前に出てきた最高善の条件を思い出すと分かりやすいです。
最高善とは、
「それ自体のために求められる最終目的」
でした。
しかし富は、
ほぼ必ず何か別のもののために求められる。
したがって、最高善ではありません。
この一節を整理すると、アリストテレスは候補をこう絞っています。
快楽
→ それだけでは人間らしい最高の生き方とは言えない。
富
→ 完全に手段なので最高善ではない。
名誉
→ 他人の評価に依存するので最高善ではない。
徳
→ 名誉より重要だが、「持っているだけ」では幸福とは言えない。
観想
→ 重要そうなので、後で改めて検討する。
こうしてアリストテレスは、幸福の候補を一つ一つふるいにかけているわけです。
ここで特に大切なのは、
「何を持っているか」と「どう生きているか」を区別していること
だと思います。
お金を持っている。
名誉を持っている。
徳を持っている。
それだけではまだ足りない。
アリストテレスが探している幸福は、
人生の中で実際に何をしているのか
という「活動」と深く関係しています。
だから、この段階でかなり輪郭が見えてきます。
幸福とは、
快楽を感じる状態でもなく、
富を所有する状態でもなく、
他人から評価される状態でもなく、
優れた人格をただ持っている状態ですらない。
むしろ、
自分の優れた性質を、実際の人生の中で働かせながら生きること
なのではないか。
アリストテレスは、そこへ近づいています。
この一節の核心を一言でまとめるなら、
「幸福は、快楽・お金・名誉のように“手に入れるもの”ではない。徳を持つだけでも足りない。幸福とは、優れた人間として実際に生き、活動することの中にある。」
ということです。
このあと出てくる「人間の機能(エルゴン)」の議論によって、アリストテレスはここからさらに、
「では、人間にしかできない活動とは何か?」
へ進み、幸福の定義をかなり具体的に絞り込んでいきます。