この議論は、そのテーマが許す範囲で十分に明確であれば、それでよい。
なぜなら、どんな話題についても、同じ程度の厳密さを求めるべきではないからだ。
それは、あらゆる職人の仕事に、まったく同じ精密さを求めるべきではないのと同じである。
政治学が扱う「善い行為」や「正しい行為」は、状況によって大きく変わる。
人によって意見も異なり、時代や社会によって判断が揺れ動くこともある。
そのため、
「善や正義というものは、自然に決まっているのではなく、人間が勝手に決めた約束事にすぎないのではないか」
と思われるほどである。
また、一般に「善いもの」と考えられているものも、必ずしもすべての人を幸福にするとは限らない。
たとえば、富によって身を滅ぼした人もいる。
勇気があったために、かえって命を失った人もいる。
だから、このようなテーマを論じるときには、
「おおむねこうである」
「大体このように考えられる」
という程度の結論で満足しなければならない。
扱っている事柄そのものが、「多くの場合そうである」という程度のものなのだから、そこから導かれる結論も、数学の証明のように完全に確実なものにはならない。
したがって、私たちは、それぞれの議論を、そのテーマにふさわしい厳密さで受け取るべきである。
教養のある人とは、
「その対象がどこまで正確に論じることのできるものなのか」
を見極め、その範囲だけ正確さを求める人である。
数学者に、
「まあ、大体そうだろう」
という説明だけで済ませてもらおうとするのも愚かである。
しかし同じように、弁論家に数学のような厳密な証明を要求するのも愚かである。
人は、自分がよく知っていることについては正しく判断できる。
その分野について教育を受けた人は、その分野の良い判断者になれる。
そして幅広い教養を身につけた人なら、さまざまなことについて良い判断ができる。
このため、若い人は政治学や倫理学を学ぶのに、必ずしも適しているとは言えない。
なぜなら、若い人はまだ人生の中で起こるさまざまな出来事を十分に経験していないからだ。
政治学や倫理学は、まさにそうした現実の人生経験をもとにして考える学問である。
さらに、若い人は感情や欲望に引っ張られやすい。
そのような人がこの学問を学んでも、あまり役に立たないことがある。
なぜなら、この学問の目的は、
「知識を得ること」
ではなく、
「実際により良く行動すること」
だからである。
そして、ここでいう「若さ」とは、単に年齢の問題ではない。
実際の年齢が若いかどうかは、本質ではない。
たとえ年を取っていても、そのときどきの欲望や感情のままに生きているなら、その人は精神的には若いままである。
欲望に振り回される人にとっては、倫理についての知識をどれほど持っていても、ほとんど役に立たない。
しかし、
理性に従って生きたいと願い、
実際にそのように行動しようとしている人にとっては、
この学問は非常に大きな利益をもたらすだろう。
以上を、
この学問を学ぶ人について、
この学問にどの程度の厳密さを期待するべきかについて、
そして、この探究が何を目的としているのかについての、
前置きとしておこう。
深掘り解説
この一節には、大きく分けて二つの重要な話があります。
一つは、
「倫理学には、数学と同じ厳密さを求めてはいけない」
という話。
もう一つは、
「倫理学は、知るための学問ではなく、生き方を変えるための学問である」
という話です。
まずアリストテレスは、
「テーマによって、求めるべき正確さは違う」
と言います。
これはかなり重要な考え方です。
たとえば数学なら、
2+2=4
は、誰が計算しても同じです。
条件が同じなら、答えも同じになります。
しかし、
「この人に対して、今ここで厳しく言うべきか」
という問題はどうでしょう。
ある場合には厳しく言うことが正しい。
別の場合には、黙って寄り添うことが正しい。
相手の性格、状況、関係性、タイミングによって変わります。
つまり倫理の問題には、
状況依存性
があります。
だから、
「善とは常に○○である」
という完全な公式を作ることは難しい。
たとえば、
「勇気は善い」
と言われます。
普通はそうです。
しかし、何も考えず危険な場所へ飛び込むことまで「勇気」として肯定してしまえば、それは無謀になります。
富も同じです。
お金があれば生活が豊かになることは多い。
しかし、お金が原因で争いに巻き込まれたり、欲望が膨らんだり、人生を壊してしまう人もいる。
つまり、
一般的に善いものでも、状況によって害になる。
アリストテレスは、ここを非常に冷静に見ています。
だから倫理学では、
「必ずこうなる」
ではなく、
「多くの場合はこうである」
という形で議論することになります。
これは、アリストテレスの考えを読むうえでかなり重要です。
彼は、
「人間は絶対こうだ」
という単純な理論を作ろうとしているわけではありません。
むしろ、
現実の人間は複雑である
という前提に立っています。
だから、現実に合わせて考える。
ここで出てくる有名な考え方が、
「教養のある人とは、その対象にふさわしい精度を求める人である」
というものです。
たとえば、
数学に対して、
「だいたい合っていればいいでしょう」
では困ります。
逆に、
「良い友人とは何ですか?」
という問いに、
「すべての人間関係に100%適用できる定義と証明を出してください」
と求めるのもおかしい。
つまり、
正確であればあるほど良いわけではない。
そのテーマに必要なだけ正確であればいい。
これは現代でもかなり使える考え方です。
そして後半では、
「誰が倫理学を学ぶべきなのか」
という話になります。
アリストテレスは少し刺激的なことを言います。
若い人は倫理学を学ぶのに向いていない。
ただし、これは、
「若者は頭が悪い」
という意味ではありません。
理由は二つあります。
一つ目は、
人生経験が少ないから。
倫理学が扱う材料は、
人間関係、仕事、欲望、失敗、選択、責任、幸福などです。
つまり、本だけを読んで理解できるものではなく、
現実の人生経験と照らし合わせながら理解する学問
なのです。
たとえば、
「節制が大切だ」
と言われても、
欲望に負けた経験も、我慢した経験も、後悔した経験もほとんどなければ、その言葉の重みはまだ分かりにくい。
しかし、もっと重要なのは二つ目の理由です。
それが、
感情や欲望のままに行動している人には、倫理学を学んでも意味がない
という話です。
ここが、この一節のかなり核心に近い部分です。
アリストテレスは、
倫理学の目的は「知識」ではなく「行動」
だと言います。
これは非常に重要です。
たとえば、
「怒りすぎるのは良くない」
と知っている。
しかし毎回怒鳴る。
「浪費は良くない」
と知っている。
しかし毎回使ってしまう。
「運動したほうがいい」
と知っている。
しかしまったく行動しない。
この場合、
知識はあるけれど、人生は何も変わっていない。
アリストテレスからすれば、それでは倫理学を学んだ意味がありません。
だから彼は、
年齢ではなく、
「精神的に若いかどうか」
を問題にします。
50歳でも、
その瞬間の欲望、
怒り、
快楽、
気分、
衝動
のままに生きているなら、
その人は、この意味では「若い」。
反対に、年齢が若くても、
自分の欲望を見つめ、
理性によって自分の行動を整えようとしているなら、
倫理学から学べるものは多いでしょう。
つまりアリストテレスが言う成熟とは、
年齢ではなく、自分を自分で統治できること
なのです。
ここは『ニコマコス倫理学』全体を理解するうえで、かなり大事です。
この本を、
「幸福についての知識を得る本」
だと思うと、少しズレます。
むしろ、
幸福に生きられる人間になるための本
です。
知識を集めることがゴールではない。
「勇気とは何か」を説明できることより、
実際に必要な場面で勇気を持って行動できるほうが重要。
「節制とは何か」を説明できることより、
欲望に振り回されずに生きられるほうが重要。
「正義とは何か」を説明できることより、
実際に正しく行動できるほうが重要です。
だから、この一節の核心を一言でまとめるなら、
「倫理学に求めるべきなのは、完璧な理論ではなく、より良く生きるために十分な指針である。そして、その知識は実際の行動に移してこそ意味がある。」
ということです。
さらに鋭く言えば、
「正しいことを知っている人」と「正しく生きている人」は、まったく別である。
アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』の本論に入る前に、まず読者にそこを理解させようとしているのだと思います。