哲学者テオプラストスは、人がよくするように、いろいろな過ちを比べながら、こう考えた。
欲望に負けて犯す過ちは、怒りに負けて犯す過ちよりも重い。
怒りに我を忘れる人は、何かに傷つけられたり、苦痛を感じたりして、その痛みや心の動揺に押されるようにして理性から離れてしまう。
一方で、欲望によって間違った行動をする人は、快楽に引っ張られている。
「欲しい」
「気持ちいい」
「自分が得をしたい」
という気持ちに負けて、自分から理性に背いてしまう。
だからテオプラストスは、苦しみの中で犯す過ちよりも、快楽を求めて犯す過ちの方が、より強く責められるべきだと考えた。
怒りによる過ちは、もともと何か嫌なことをされ、その苦痛に押されて理性を失ってしまった人に近い。
しかし、欲望による過ちはそうではない。
誰かに追い込まれたのではなく、自分の中から生まれた欲望に引っ張られ、自分から間違った行動へ進んでいる。
だから、欲望に負けて犯す過ちの方が、より深く自分の理性を裏切っているのである。
この一節の核心
苦しみに押されて理性を失うことより、快楽を求めて自分から理性を手放すことの方が、より重大な過ちである。
怒りも、もちろん理性を失った状態です。
ただ、怒りには「傷つけられた」「苦痛を受けた」というきっかけがある場合があります。
それに対して欲望による過ちは、快楽や利益を得るために、自分から間違った方向へ進んでいる。
だからテオプラストスは、こちらの方をより重く見たのです。
深掘り解説
この一節では「二種類の理性の負け方」を比べている
ここで比べられているのは、
怒りに負けること
と、
欲望に負けること
です。
どちらもストア哲学から見れば、理性が感情や衝動に支配された状態です。
ただし、その理性の失い方には違いがあります。
怒りの場合は、
苦痛に押されて理性から外れる。
欲望の場合は、
快楽に引かれて理性から外れる。
テオプラストスは、この違いを重要だと考えました。
怒りは「痛みへの反応」として起こる
例えば、
侮辱された。
裏切られた。
理不尽なことをされた。
大切なものを傷つけられた。
そこで腹が立ち、思わず強い言葉を返してしまう。
もちろん、それで相手を傷つければ、その行動まで正当化されるわけではありません。
しかし少なくとも、その人は、
何らかの痛みを受け、その痛みに押されて理性を失った
と見ることができます。
原文では、
pain and inward spasm
と表現されています。
心が締めつけられるような苦しさや動揺の中で、冷静な判断ができなくなっているわけです。
つまり怒りによる過ちは、
「苦しかったから、理性を保てなかった。」
という種類の失敗です。
欲望による過ちは「快楽へ向かって」起こる
それに対して欲望は、方向が逆です。
苦しいから逃げようとしているのではありません。
気持ちよくなりたいから、その方向へ進んでいる。
もっとお金が欲しい。
もっと評価されたい。
もっと楽をしたい。
もっと快楽を得たい。
自分だけ得をしたい。
そうした欲望に引っ張られて、
「正しくないと分かっているけれど、やってしまう。」
こちらをテオプラストスは、より重い過ちだと考えました。
なぜなら、
苦痛に追い込まれたのではなく、快楽を求めて自分から理性を手放している
からです。
「欲望」は食欲だけではない
ここでいう appetite は、かなり広い意味です。
単なる食欲ではありません。
「欲しい」
「もっと欲しい」
「気持ちよくなりたい」
という衝動全般です。
例えば、
お金への欲。
名誉欲。
承認欲求。
性欲。
食欲。
優越感。
贅沢したい気持ち。
楽をしたい気持ち。
などです。
だからこの一節は、
「食べすぎに注意しよう」
という程度の話ではありません。
もっと広く、
「快楽や利益のために、自分が正しいと思っていることを曲げていないか。」
と問いかけています。
なぜ「快楽を伴う過ち」の方が重いのか
例えば、二人の人が嘘をついたとします。
一人は、激しく責められて怖くなり、その場から逃れるために思わず嘘をついた。
もう一人は、お金を得るために計画的に嘘をついた。
どちらも嘘です。
でも、私たちは二人目の方に、より大きな問題を感じることがあります。
一人目には、
「恐怖に負けた」
という事情があります。
しかし二人目は、
利益を得るために、自分から不正を選んでいる。
テオプラストスの考え方は、この違いに近いです。
だからといって「怒りなら仕方ない」ではない
ここは重要です。
この一節は、
「怒って人を傷つけても、欲望よりマシだから問題ない。」
と言っているわけではありません。
怒りに支配されて理性を失うことも、ストア哲学では明確な問題です。
相手に傷つけられたからといって、
自分まで間違った行動をしてよいわけではありません。
ここでしているのは、
二種類の過ちの性質を比較している
だけです。
どちらも避けるべき。
ただし、快楽を得るために自分から理性を捨てる方が、より強く責任を問われる。
そういうことです。
「気持ちいいから」は、とても危険な理由になる
この一節は現代にもかなり当てはまります。
悪口を言う。
誰かを見下す。
SNSで攻撃する。
無駄遣いをする。
やるべきことを先延ばしする。
自分だけ得をするためにズルをする。
こうした行動には、その瞬間だけ見ると快感があります。
悪口を言えばスッキリする。
相手より優位に立てば気分がいい。
買い物をすれば気持ちが上がる。
面倒な仕事を後回しにすれば楽になる。
でも、その瞬間に、
快楽が理性を支配していないか。
マルクス・アウレリウスがここで警戒しているのは、その状態です。
「やりたい」と「やっていい」は違う
欲望が生まれること自体は悪ではありません。
おいしいものを食べたい。
お金が欲しい。
褒められたい。
楽しいことをしたい。
どれも自然な感情です。
問題なのは、
「やりたい」=「やっていい」
になってしまうことです。
ストア哲学では、欲望が生まれたあとに理性を働かせます。
「私は今これを欲しがっている。」
「でも、それは本当に正しいだろうか。」
「これを選んだら、自分はどんな人間になるだろうか。」
と考える。
つまり、
欲望そのものをなくすのではなく、欲望を最終決定者にしない。
ということです。
快楽そのものが悪いわけではない
ストア哲学は、
「楽しいことはすべて悪い。」
という哲学ではありません。
おいしいものを食べる。
友人と笑う。
ゆっくり休む。
美しいものを見る。
こうしたこと自体を否定しているわけではありません。
問題なのは、
快楽を得るためなら、正しさを曲げてもいい
となることです。
「得をするなら嘘をついてもいい。」
「気持ちいいなら誰かを傷つけてもいい。」
そうなった瞬間、
快楽が理性の主人になっています。
「effeminate」は当時の価値観を含んだ表現
原文には、
more effeminate
という表現があります。
直訳すると「より女々しい」といった意味になりますが、これは古代から近代にかけての男性中心的な価値観が反映された表現です。
この一節を理解するうえで、
「女性的であることが悪い」
と受け取る必要はありません。
文脈上、重要なのは、
快楽への抵抗力が弱く、自制心を失っている
という部分です。
現代的には、
「より自制を失っている」
くらいに理解する方が、この文章の哲学的な核心を捉えやすいと思います。
自分は「怒り」と「欲望」のどちらに負けやすいか
この一節は、他人を裁くためというより、
自分を観察するため
に使うと面白いです。
自分は、
傷つけられたときに怒りで理性を失いやすいのか。
それとも、
楽な方。
気持ちいい方。
得する方。
そちらへ流されて理性を失いやすいのか。
人によって違います。
「私はどんなときに、自分の理性を手放しやすいのだろう。」
と見る。
それが分かれば、そこに注意を向けられます。
この一節は「快楽に誘われて、自分から道を外れるな」という話
怒りは、
苦しみに押されて理性を失う。
欲望は、
快楽に引かれて理性を失う。
どちらも、自分の心の主導権を失った状態です。
ただテオプラストスは、
苦しみに押されて道を外れることよりも、
快楽のために自分から道を外れることの方が、より重大だ
と考えました。
だから、この一節を現代的にまとめるなら、
「つらいから間違うことにも注意せよ。しかし、気持ちいいから間違うことには、もっと注意せよ。」
という教えです。
さらに短く言えば、
「快楽のために、理性を売るな。」
ということなのだと思います。