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これまでの形而上学は、本当の意味ではまだ学問になっていない。新しい原理から作り直さなければならない

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これまでの形而上学は、本当の意味ではまだ学問になっていない。新しい原理から作り直さなければならない

それでも私は、この『プロレゴーメナ』を先入観なく自分の頭で読む人なら、これまで自分が「形而上学」と呼んできたものに疑いを持つようになるだけでなく、最終的には、ここで示される条件を満たさないかぎり、形而上学という学問は成立しえないと確信するようになるだろう、と考えています。

そして、その条件はこれまで一度も満たされてこなかったのですから、厳密に言えば、これまで本当の意味での形而上学という学問は、まだ存在していなかったことになります。

しかし、人間は形而上学を求めることをやめることができません。

なぜなら、形而上学が扱う問題は、人間の日常的で根本的な関心と深く結びついているからです。

だから結局、形而上学には徹底的な改革が必要です。

いや、単なる修正では足りません。

これまでとはまったく違う原理に基づいて、形而上学という学問そのものを、いわば新しく生まれ変わらせなければなりません。

たとえ人々がしばらくのあいだ、その変化に抵抗するとしても、それは避けられないのです。

カントは「これまでの形而上学は、まだ学問ではなかった」と言っている

この一節は、ここまでの序文の議論がかなり強い結論に到達するところです。

カントは単に、

「従来の形而上学には問題があります」

と言っているのではありません。

もっと踏み込んで、

「厳密な意味では、これまで形而上学という学問そのものが成立していなかった」

と言っています。

かなり大胆な宣言です。

「独立した読者」とは何か

冒頭には、

the independent reader

とあります。

これは、単に一人で読む人という意味ではありません。

ここで重要なのは、

既存の権威や伝統に引きずられず、自分自身の理性で判断する読者

という意味です。

前の一節では、

  • 古いから正しいと思う人
  • 既存の教科書を権威として扱う人
  • 新しいものを昔の何かと同じにしないと理解できない人

が批判されていました。

その反対にいるのが、この「独立した読者」です。

つまりカントは、

「過去の哲学者が何と言ったかではなく、私の議論そのものを自分で検討してほしい」

と言っているわけです。


形而上学には「成立条件」がある

この一節で特に大事なのが、

the demands here stated on which its possibility depends

という部分です。

つまり、

形而上学が学問として成立するためには、満たさなければならない条件がある

ということです。

カントは、

「形而上学をやりたい人がいるから、形而上学は存在する」

とは考えません。

また、

「昔から研究されているから、学問として成立している」

とも考えません。

必要なのは、

その知識がどうして可能なのかを説明できること

です。

「知識がある」だけでは足りない

たとえば誰かが、

「人間の魂は不滅です」

と言ったとします。

カントが聞きたいのは、

「その主張は面白いですね」

ではありません。

「あなたは、どういう仕組みによって、それを知ることができたのですか?」

です。

神についても同じです。

世界全体についても同じです。

自由についても同じです。

形而上学が経験を超えたことについて知識を主張するなら、

人間の理性が、なぜ経験を超えてまで正しい認識を持てるのか

を説明しなければならない。

それができなければ、知識ではなく単なる主張になってしまいます。


なぜ「まだ形而上学は存在しない」とまで言えるのか

カントの論理はかなり単純です。

形而上学が本当の学問であるためには、ある条件を満たさなければならない。

ところが、

これまでの形而上学は、その条件を満たしてこなかった。

したがって、

厳密な意味での形而上学は、まだ存在していない。

ということです。

ここで大事なのは、

カントが、

「形而上学的な議論が存在しなかった」

と言っているわけではないことです。

もちろん大量に存在しました。

しかし、

「議論があること」と「学問が成立していること」は別です。

というのがカントの立場です。

何千冊の本があったとしても、

知識として成立する根拠が明らかでなければ、

カントからすればまだ完成した学問とは言えません。


それでも人間は形而上学をやめられない

ここから、とても重要な方向転換があります。

もし形而上学がまだ学問として成立していないなら、

「では、もう形而上学なんてやめればいい」

となりそうです。

ところがカントは、そう考えません。

原文では、

it can never cease to be in demand

とあります。

つまり、

形而上学への要求は決してなくならない。

ということです。

なぜ人間は形而上学を求め続けるのか

人間はどうしても、

「私は死んだらどうなるのか」

「世界には始まりがあるのか」

「神は存在するのか」

「私は本当に自由なのか」

「人生や世界には究極的な意味があるのか」

と考えます。

これらは、単なる専門家の趣味ではありません。

普通に生きている人間が自然に持つ問いです。

だからカントは、

the interests of common sense are intimately interwoven with it

と言っています。

ここでいう common sense は、単なる「常識」というより、

普通の人間が生きるうえで持つ根本的な関心

くらいに考えるとわかりやすいです。

形而上学は、

人間の生そのものに関わる問いを扱っている。

だから、

学問として失敗しているからといって、問いそのものを消すことはできない。

のです。


「形而上学を捨てる」ではなく「作り直す」

ここがカントの立場を理解するうえで非常に大切です。

カントは、

形而上学を否定して終わり

ではありません。

むしろ、

形而上学は必要だからこそ、正しい形に作り直さなければならない

と考えています。

だから、

a radical reform

つまり、

根本的な改革

が必要になる。

しかしカントはすぐに、

or rather a new birth

と言い直します。

つまり、

いや、改革というより「新しく生まれ直す」と言ったほうがよい

ということです。

この言い直しには大きな意味があります。


「改革」では足りず「新生」が必要

改革なら、

今あるものを少し直すイメージです。

たとえば、

「この部分を修正しよう」

「この理論を少し改善しよう」

という程度です。

しかしカントは、それでは足りないと考えます。

なぜなら問題は、

個別の理論ではなく、

形而上学の出発点そのもの

にあるからです。

従来の形而上学は、

「世界はどうなっているか」

「神はどのような存在か」

と直接考えてきました。

カントはその前に、

「人間の認識はそもそもどう成立するのか?」

を調べようとします。

つまり建物を修理するのではなく、

設計図から作り直す。

これが、

after an original plan

「新しい、独自の設計に基づいて」

という表現につながります。


「新しい設計図」とは何か

では、その新しい設計図とは何でしょうか。

それが、カントの批判哲学です。

これまでの形而上学は、

対象について直接語ろうとしました。

カントは、

まず認識する人間の側を調べます。

従来の問い

「世界は本当はどうなっているのか?」

カントの問い

「人間は世界をどのような仕組みで認識しているのか?」

従来の問い

「神は存在するのか?」

カントの問い

「人間の理性は、神について知識を持つことが可能なのか?」

このように、

対象について答える前に、認識の条件を調べる。

これが、新しい形而上学の設計図です。


カントは形而上学を破壊しながら、同時に救おうとしている

ここまで読むと、カントの立場が面白く見えてきます。

一方では、

「これまで本当の形而上学は存在していなかった」

と徹底的に批判しています。

しかし他方では、

「形而上学は人間にとって必要だから、捨てることはできない」

とも言っている。

つまりカントは、

形而上学の敵なのではありません。

むしろ、

従来の形而上学をいったん壊すことで、形而上学を救おうとしている

のです。

この構造は、前に出てきた「塔」の比喩ともつながります。

塔を壊すのは、

塔そのものが嫌いだからではありません。

今度こそ崩れない塔を建てるために、土台から調べ直す。

それがカントの目的です。


この一節の核心

この一節を一言でまとめるなら、

「これまでの形而上学は、本当の意味ではまだ学問になっていない。しかし人間は形而上学的な問いを捨てられない。だから形而上学を捨てるのではなく、まったく新しい原理から作り直さなければならない」

ということです。

ここまでの序文をつなげると、カントの論理はかなりきれいです。

形而上学は何百年も進歩していない。

なぜなら、確かな知識と単なる主張を区別する基準がない。

ならば、

「そもそも形而上学はどうすれば可能なのか」

を先に調べなければならない。

その検査をすると、従来の形而上学は学問として成立していなかったことが分かる。

しかし、

神、魂、自由、世界といった問いは、人間の理性から自然に出てくるため、形而上学そのものを捨てることもできない。

そこで必要になるのが、

従来の形而上学の修正ではなく、形而上学そのものの「新生」

です。

そして、その新しい形而上学を可能にするための設計図を示そうとしているのが、『プロレゴーメナ』なのです。

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