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BOOK 1 4

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では、私たちの探究に戻ろう。

あらゆる知識や行動が、何らかの「善いもの」を目指しているのだとすれば、政治学が目指しているものは何なのか。

そして、人間が行動によって実現できるものの中で、最も高い善とは何なのか。

その名前については、多くの人の意見がほぼ一致している。

普通の人も、教養のある人も、

「それは幸福である」

と答える。

そして、

「幸福であること」とは、
「よく生きること」
「よく行動すること」

だと考えている。

しかし、

「では、幸福とは具体的に何なのか」

ということになると、意見は分かれる。

普通の人々と、知恵のある人々では、同じ答えにならない。

多くの人は、幸福とは、

快楽である、
富である、
名誉である、

といった、分かりやすいものだと考える。

しかし、その答えは人によって違う。

それどころか、同じ人間でさえ、状況が変われば幸福についての考えを変える。

病気になれば、

「健康こそ幸福だ」

と思う。

貧しくなれば、

「お金こそ幸福だ」

と思う。

また、自分では幸福についてよく分かっていないと感じている人は、自分には理解できないような壮大な理想を語る人を見て、

「この人は何か深いことを知っているのだろう」

と感心する。

さらに、こうした個々の善とは別に、

「善そのもの」

のようなものが独立して存在し、それが、ほかのすべてのものを善いものにしているのだ、と考えた人々もいる。

しかし、これまで語られてきた幸福についての考えを、すべて検討する必要はないだろう。

広く信じられている考えや、少なくとも検討する価値のある考えを調べれば十分である。

ただし、ここで一つ注意しておかなければならない。

議論には、

「原理から出発する議論」

と、

「原理そのものへ向かう議論」

という違いがある。

プラトンも、この違いについて考えることが重要だと言っていた。

「私たちは原理から出発しているのか、それとも原理へ向かっているのか」

という問いである。

これは、競技場で、

出発地点から折り返し地点まで走ることと、
そこから出発地点へ戻ってくることが違うようなものである。

私たちは、まず「自分たちにとって分かっていること」から始めなければならない。

なぜなら、「知られているもの」には二つの意味があるからだ。

一つは、

「私たちにとって分かりやすいもの」。

もう一つは、

「それ自体として、より根本的で明らかなもの」。

倫理について考えるときには、まず、

「私たちにとって分かっていること」

から出発する必要がある。

だから、善いことや正しいこと、そして政治学が扱う問題について、きちんと学ぼうとする人は、あらかじめ良い習慣を身につけている必要がある。

なぜなら、

「実際にこうするのが善い」

という事実そのものが、倫理学の出発点になるからである。

そのことが十分に身についている人なら、最初から、

「なぜそれが善いのか」

という理由まで完全に理解している必要はない。

良い教育を受け、良い習慣を身につけた人なら、倫理について考えるための出発点をすでに持っているか、少なくとも簡単に身につけることができる。

しかし、

自分自身では何が善いのか分からず、

ほかの人から正しいことを教えられても、それを受け入れることができない人については、

ヘシオドスの次の言葉を聞いてもらえばいい。

「何が正しいかを、自分自身で理解できる人が最も優れている。

正しい助言を聞いて、それを受け入れられる人もまた優れている。

しかし、自分では分からず、
ほかの人の知恵にも耳を貸さない人は、
何の役にも立たない人である。」

深掘り解説

この一節から、『ニコマコス倫理学』はいよいよ本格的に「幸福とは何か」という問題へ入っていきます。

まずアリストテレスは、

人間が目指す最高善について、その“名前”にはほとんど異論がない

と言います。

それが、

幸福(エウダイモニア)

です。

普通の人も、教養のある人も、

「最終的には幸せになりたい」

という点では一致している。

ここまでは簡単です。

難しいのは、その次です。

「では、幸福って何?」

と聞いた瞬間に、意見がバラバラになる。


たとえば、

「幸福とはお金だ」

という人がいる。

「いや、健康だ」

という人がいる。

「楽しいことができることだ」

という人もいる。

「人から尊敬されることだ」

という人もいる。

つまり、

幸福という言葉では一致していても、その中身では一致していない。

アリストテレスは、ここを問題にしています。


そして非常に面白いのが、

同じ人間でも、置かれた状況によって“幸福とは何か”という答えが変わる

という指摘です。

病気になると、

「健康さえあれば幸せなのに」

と思う。

お金がなくなると、

「お金さえあれば幸せなのに」

と思う。

孤独になると、

「良い人間関係さえあれば幸せなのに」

と思うかもしれません。

これは今でもそのまま当てはまります。

つまり人間は、

「今、自分に欠けているもの」を幸福そのものだと思いやすい。

ということです。

しかしアリストテレスは、ここで立ち止まります。

健康も富も名誉も、本当に「最高善」なのだろうか。

それらは幸福を実現するための一部分や手段ではないのか。

この違いを、これから検討していくわけです。


ここには、前の一節で出てきた、

「それ自体のために求めるもの」

という基準が効いてきます。

たとえばお金について考えてみます。

なぜお金が欲しいのか。

何かを買うため。

生活を安定させるため。

自由を得るため。

好きなことをするため。

つまり、お金は普通、

「その先にある何か」のために欲しい。

だとすれば、お金そのものが最高善ではない可能性が高い。

最高善とは、

「それを得たあとに、“それで何をしたいの?”とさらに問い続けなくてもよいもの」

でなければならない。

アリストテレスは、幸福とはそのようなものではないか、と考え始めます。


もう一つ、この部分ではプラトンの思想が登場します。

個々の善とは別に、「善そのもの」が存在するのではないか。

これは、プラトンのイデア論を意識した話です。

たとえば、

善い人、
善い行為、
善い制度、
善い人生

というものが存在するとします。

プラトン的に考えるなら、それらが善いのは、すべてが何らかの形で、

「善そのもの」

に関係しているからではないか、ということになります。

アリストテレスは後で、この考え方をかなり批判的に検討します。

つまり、

「善のイデアのような抽象的な善を知るだけで、本当に人間は良く生きられるのか?」

という問題です。

『ニコマコス倫理学』の関心は、あくまで、

実際の人間がどう生きるべきなのか

にあります。


そして、この一節の後半は少し難しいところです。

アリストテレスは、

「原理から考えること」と「原理へ向かって考えること」は違う

と言います。

かなり抽象的ですが、簡単にすると、

理論から現実を見る方向と、現実から理論を見つけていく方向がある

ということです。

たとえば、

「人間にとって善とは○○である」

という原理を最初に決め、

そこから、

「だからこの行為は善い」

と考える。

これは、

原理 → 個別の行為

という方向です。

しかし倫理学では、必ずしもそこから始められません。

まず私たちは、

「約束を守るのは大切だ」

「人をむやみに傷つけるのは良くない」

「勇気を持つことは立派だ」

といった、生活の中で身につけた感覚を持っています。

そこから、

「では、なぜそれが善いのだろう?」

と考えていく。

つまり、

経験 → 原理

という方向です。

アリストテレスは、倫理学ではまずこちらから始める必要がある、と考えています。


ここで重要になるのが、

「私たちにとって知られているもの」と「それ自体として知られているもの」の違い

です。

たとえば小さな子どもは、

「人のものを勝手に取ってはいけません」

と教えられます。

子どもは最初から、

所有権とは何か、
正義とは何か、
共同体とは何か、

を哲学的に理解しているわけではありません。

でも、

「人のものを盗んではいけない」

ということは覚える。

つまり、

「そうするべきだ」という事実を先に身につける。

後になって、

「なぜなのか」

を理解していく。

これがアリストテレスの考える倫理教育です。


だからこの一節では、かなり重要なことを言っています。

倫理学を学ぶには、すでにある程度“良い習慣”が必要である。

普通なら、

「倫理学を勉強する → 善い人になる」

と思います。

しかしアリストテレスは、少し逆のことを言います。

ある程度、

善い行動をする習慣、
欲望を抑える習慣、
正しいことを受け入れる態度

を持っていなければ、

そもそも倫理学の議論を正しく理解できない。

これは前の一節ともつながります。

前回アリストテレスは、

倫理学の目的は「知識」ではなく「行動」である

と言いました。

今回さらに、

良い行動の習慣が、良い倫理的思考の土台にもなる

と言っているわけです。


これはアリストテレス倫理学の非常に重要な特徴です。

現代では、

知る
↓
納得する
↓
行動する

と考えがちです。

しかしアリストテレスでは、

行動する
↓
習慣になる
↓
人格が形成される
↓
善とは何かをより深く理解できる

という方向もあります。

つまり、

正しく考えられるから正しく行動できるだけではない。
正しく行動する習慣を持つから、正しく考えられるようにもなる。

ここは『ニコマコス倫理学』の中心思想である「徳(アレテー)」につながっていきます。


最後に引用されるヘシオドスの言葉も、この流れで読むと非常に分かりやすいです。

人間には大きく三種類いる。

自分で正しいことを理解できる人。

これが一番良い。

次に、

自分では分からなくても、賢い人の助言を聞いて受け入れられる人。

これも良い。

しかし、

自分でも分からず、人の助言も聞かない人。

この人には、教えることそのものが非常に難しい。

アリストテレスが重視しているのは単なる頭の良さではありません。

「より良く生きたい」という姿勢そのもの

なのです。


この一節の核心は、二つにまとめられます。

一つは、

「人間はみな幸福を最高善だと言う。しかし、本当の問題は“幸福とは何か”である。」

もう一つは、

「幸福について正しく考えるためには、理論だけでは足りない。良い習慣と、正しいことを受け入れられる人格が必要である。」

ということです。

そしてここからアリストテレスは、

快楽なのか。
富なのか。
名誉なのか。
それとも別の何かなのか。

という候補を一つずつ検討しながら、

「幸福とは、人間にとってどのような生き方なのか」

をさらに絞り込んでいきます。

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