もし私たちの行動の中に、
「それ自体を目的として求めるもの」
があるとしよう。
そして、ほかのすべてのものを、その最終的な目的のために求めているとする。
実際、私たちが何かを選ぶたびに、
「これは別の何かのため」
「その別の何かも、さらに別の何かのため」
と、どこまでも目的が続いていくのだとしたら、目的は永遠にたどり着かず、私たちの欲求はむなしいものになってしまう。
だから、どこかに
「それ自体のために求める、最終的な目的」
がなければならない。
そして、それこそが「善」であり、「最高善」と呼ばれるものだろう。
もしそうなら、この最高善が何であるかを知ることは、私たちの人生に大きな影響を与えるはずだ。
弓を射る人が、狙うべき的を知っていれば矢を当てやすいように、
私たちも人生の目標を知っていれば、何をするべきなのかを、より正しく判断できるのではないだろうか。
だから私たちは、少なくとも大まかにでも、
「最高善とは何なのか」
そして、
「それを扱うのは、どの学問や技術なのか」
を明らかにしなければならない。
最高善を扱うのは、ほかの学問や技術を統括する、最も上位の学問であるはずだ。
そして、その役割を持っているのは「政治学」であるように思われる。
なぜなら政治は、
国家の中で何を学ぶべきなのか、
誰が何を学ぶべきなのか、
そして、どの程度まで学ぶべきなのか、
を決めるからである。
実際、軍事戦略や経済、弁論術といった重要な技術さえも、政治のもとに置かれている。
さらに政治は、さまざまな学問や技術を利用するだけでなく、
私たちは何をするべきなのか、
そして何をしてはいけないのか、
についても法律によって定める。
したがって、政治が目指す目的は、ほかのあらゆる学問や技術が目指す目的を含んでいることになる。
だから政治が目指すものこそ、
「人間にとっての善」
なのである。
もちろん、一人の人間にとっての善と、国家全体にとっての善は、基本的には同じものかもしれない。
しかし、その善を一人だけのために実現するよりも、
国民全体や都市国家全体のために実現し、それを守ることのほうが、より大きく、より完全なことである。
一人の人間を幸福にすることも、もちろん価値のあることである。
しかし、多くの人々や国家全体の幸福を実現することは、さらに立派で、より尊いことである。
だから私たちの探究は、
「人間にとっての最高善とは何か」
を明らかにすることを目的としている。
そして、この意味で『ニコマコス倫理学』の探究は、政治学に属するのである。
深掘り解説
この一節で、アリストテレスは前の議論から一段階上へ進みます。
前の一節では、
「人間のあらゆる行動は、何らかの善を目指している」
と述べました。
医学なら健康。
造船なら船。
戦略なら勝利。
しかし、そこで新しい疑問が生まれます。
「では、それらすべての目的の一番上には何があるのか?」
という問いです。
たとえば、
仕事をする
↓
お金を得る
とします。
でも、お金そのものが最終目的とは限りません。
お金を得る
↓
生活を安定させる
↓
自由な時間を得る
↓
好きなことをする
↓
充実した人生を送る
というように、「なぜそれが欲しいのか?」を問い続けることができます。
では、
「充実した人生を送りたいのは、何のため?」
と聞かれたとき、
「それ自体が望ましいから」
と答えられる地点があるのではないか。
アリストテレスは、その地点を探しています。
それが、
最高善
です。
ここで非常に重要なのが、
どこかで目的の連鎖が終わらなければならない
という論理です。
もし、
AはBのため。
BはCのため。
CはDのため。
DはEのため……
と永遠に続いてしまったら、私たちは結局、何一つ「本当に欲しいもの」を持っていないことになります。
すべてが手段であって、目的がない。
だからアリストテレスは、
「それ以上、何かのためではない目的」
が存在しなければならない、と考えます。
つまり、
それ自体が欲しいから欲しいもの。
これが最高善です。
そしてこの後、アリストテレスはそれを、
幸福(エウダイモニア)
だと考えていきます。
ここで出てくる弓矢の比喩は、『ニコマコス倫理学』全体でもかなり重要な比喩です。
的を持つ弓兵のように、私たちも人生の目標を知れば、正しい方向へ進みやすくなる。
たとえば人生で、
「何をするべきか」
を考える場面は大量にあります。
この仕事を受けるべきか。
お金を使うべきか。
勉強するべきか。
休むべきか。
人間関係を続けるべきか。
こうした判断を一つ一つバラバラに考えていたら、迷いやすくなります。
しかし、
「そもそも私は、どういう人生を良い人生だと考えているのか」
が分かっていれば、判断基準が生まれます。
弓矢で言えば、
的が見える
わけです。
逆に、的がないのに「正しい方向へ矢を飛ばそう」とすることはできません。
だから倫理学は単なる、
「これは善い行為です」
「これは悪い行為です」
というルール集ではありません。
もっと根本的に、
「そもそも人生は何を目指すべきなのか」
を明らかにしようとしているのです。
そして現代人には少し意外なのが、
最高善を扱う学問は「政治学」である
という部分です。
ここで注意したいのは、アリストテレスの言う「政治」は、現代の政党政治や選挙の話とはかなり違うということです。
語源的には、
ポリス=都市国家をどう運営するか
という話です。
つまり、
「人々が良く生きられる社会を、どう作るか」
を考える学問です。
アリストテレスの感覚では、
倫理学と政治学は切り離されていません。
むしろ、
倫理学=一人の人間がどう生きるべきか
に対して、
政治学=人々が共同体の中でどう良く生きるか
を考えるものです。
なぜ政治学が一番上に置かれるのか。
アリストテレスはこう考えます。
医学は健康を扱います。
軍事学は勝利を扱います。
経済は富を扱います。
弁論術は人を説得する能力を扱います。
しかし政治は、
それらを何のために使うのか
まで決めます。
たとえば、
医学をどれくらい発展させるのか。
どのような教育を行うのか。
軍事力を何のために使うのか。
どのような行為を法律で禁止するのか。
こうした社会全体の方向性を決めるのが政治です。
だから政治は、
個別の技術のさらに上位にある
と考えられるのです。
この考え方は、前の一節の「目的の階層」と完全につながっています。
たとえば、
剣を作る技術
↓
兵士が剣を使う
↓
軍隊を動かす
↓
戦略を実行する
↓
国家を守る
というように、
個別の技術は、より大きな目的の中に組み込まれています。
だから、
「最も上位にある目的を扱う学問が、最も上位の学問になる」
という構造です。
そして、この一節の最後で非常にアリストテレスらしい考え方が出てきます。
一人の人間を幸福にすることも大切です。
しかし、
同じ幸福を、多くの人々に実現するほうが、より大きな善である。
一人が良く生きる。
それも素晴らしい。
しかし、
百人が良く生きる社会を作る。
一万人が良く生きられる制度を作る。
そのほうが、扱っている「善」の規模が大きい。
だからアリストテレスは、
倫理学の最終地点は、社会や政治の問題にもつながっていく
と考えています。
そして、この部分は『ニコマコス倫理学』を読む上で、とても大切です。
この本は、
「どうすれば私個人が幸せになれるのか?」
だけを扱っている本ではありません。
むしろ、
「人間にとって良い人生とは何か。そして、人間が良く生きられる共同体とはどのようなものか」
という巨大な問いを扱っています。
だから『ニコマコス倫理学』は、最終的にアリストテレスの『政治学』へとつながっていきます。
この一節の核心を一言でまとめるなら、
「人生には、それ自体のために求める最終目的があるはずだ。その目的を知ることができれば、私たちは人生という弓を、どこへ向けて射ればいいのかが分かる。」
ということです。
そしてアリストテレスはここから、
「では、その最高善とは具体的に何なのか?」
という『ニコマコス倫理学』最大の問題へ入っていきます。