BOOK 1 12
これまでの問題については、ひとまず答えが出た。
では次に、幸福とは「ほめられるもの」なのか、それとも「尊ばれるもの」なのかを考えてみよう。
少なくとも幸福は、単なる可能性や能力のようなものではない。
私たちが何かを「ほめる」とき、その対象はたいてい、
「それがどんな性質を持っているか」
そして、
「何か良いものと、どのような関係にあるか」
という理由でほめられている。
たとえば私たちは、
正しい人、
勇気のある人、
立派な人、
あるいは正義や勇気といった徳そのものをほめる。
それは、そうした人や徳によって、立派な行動が生み出されるからである。
同じように、
力の強い人、
走るのが速い人
などもほめる。
それは、その人が優れた能力を持ち、それが何か良い目的に役立つからである。
このことは、神々をほめる場合を考えてみても分かる。
本来、神々を人間と同じ基準で評価するのはおかしなことである。
それでも私たちが神々を「ほめる」ことがあるのは、ほめるという行為そのものが、
「ほかの何かとの関係で、その対象を評価すること」
だからである。
もし「ほめる」ということが、このようなものに向けられるのだとすれば、
最も優れたものに対しては、単なる「ほめ言葉」では足りない。
もっと高い仕方で評価されるべきである。
実際、神々や、神に近いほど優れた人々について私たちは、
「立派ですね」
とほめるだけではなく、
「祝福されている」
「幸福である」
と呼ぶ。
善いものについても同じである。
私たちは幸福を、正義をほめるような仕方でほめるのではない。
むしろ、
幸福そのものを「祝福すべきもの」「尊いもの」として扱う。
それは幸福が、正義などよりもさらに高い、神的で優れたものだと考えられているからである。
エウドクソスも、快楽こそ最高の善であると主張するとき、この点については正しい考え方をしていたように思える。
彼は、
快楽は善いものなのに、普通は「ほめる」対象にはならない。
それなら、快楽は、ほめられるものよりもさらに上にあるのではないか、
と考えた。
そして神や最高善も同じであり、
それら自体がほめられるのではなく、
むしろ、それらを基準として、ほかのものが評価されるのだと考えた。
「ほめる」ということは、徳にふさわしい。
なぜなら徳によって、人は立派な行動をしやすくなるからである。
一方で、
身体や魂によって実際になされた立派な行為については、
さらに具体的な賞賛や称賛が与えられる。
ただ、このような「ほめ方」の細かな違いについては、称賛や演説を専門に研究する人たちに任せればよいだろう。
私たちにとって重要なのは、
幸福が単に「ほめられるもの」ではなく、
それ自体として尊ばれ、
完成されたものに属する
ということが分かれば十分である。
そして幸福がそのようなものだということは、
幸福が私たちの行動の「出発点であり目的」であることからも分かる。
私たちは、結局のところ、
幸福になるために、さまざまなことを行っている。
そして、ほかの善いものを生み出す最初の原理や原因となるものは、
それ自体が尊ばれ、
神的なものだと考えるべきなのである。
深掘り解説
「ほめられるもの」と「尊ばれるもの」は違う
今回の一節でアリストテレスが考えているのは、
幸福は、徳と同じように「ほめる対象」なのか
という問題です。
一見すると、
「幸福は良いものなんだから、ほめればいいじゃないか」
と思えます。
しかしアリストテレスは、
「ほめる」ということ自体に、ある特徴がある
と考えます。
たとえば、
「この人は勇気がある」
とほめる場合、
なぜほめるのでしょうか。
それは、
勇気があるから、困難な場面で立派な行動ができる
からです。
つまり勇気は、
何か良い行動につながる性質
としてほめられている。
正義も同じです。
正しい人をほめるのは、
その人が正しく行動するからです。
「ほめる」には、その先の基準がある
ここが今回の核心です。
アリストテレスにとって、
何かをほめるということは、
「それが、ある目的に対してどれだけ優れているか」
を評価することです。
たとえば、
「この人は走るのが速い」
という評価も、
走るという活動において優れている、
という意味です。
「この道具は良い」
という評価も、
何かの目的に役立つから良い。
つまり、
ほめられるものには、その先に何らかの基準や目的がある。
ところが幸福は、
これまで何度も見てきたように、
その先に目的がない。
幸福は、
何か別のものを得るための手段ではありません。
名誉は幸福のために求めることがある。
徳も幸福のために求めることがある。
快楽も幸福のために求めることがある。
しかし、
幸福を何か別のもののために求めることはない。
だから幸福を、
「○○の役に立つから立派だ」
という仕方では評価できないのです。
幸福は「評価される側」ではなく「評価の基準」
幸福は、ほかのものより一段上にある
ここからアリストテレスは、
幸福を単に「ほめるもの」ではなく、
尊ぶべきもの
だと考えます。
もっと簡単に言えば、
徳は、
「それによって善く生きられるから素晴らしい」
と評価される。
しかし幸福は、
「それによって何かが得られるから素晴らしい」
のではない。
幸福そのものが、
ほかのものを評価するときの最終基準
なのです。
たとえば、
「お金は善いものか?」
と考えたとします。
アリストテレス的には、
お金そのものを見て判断するのではなく、
それが良い人生にどう役立つか
によって評価します。
「健康は善いか?」
「名誉は善いか?」
「快楽は善いか?」
という問いも同じ。
結局、
「それは人間の幸福にどう関係するのか」
というところへ戻ってくる。
つまり幸福は、
数ある善の中の一つというより、
さまざまな善を判断する最終的な基準
として扱われています。
なぜ神々の話が出てくるのか
神を普通に「ほめる」のは少しおかしい
アリストテレスは、
神々についての話を出しています。
これも、
「ほめる」という行為の限界
を示すためです。
たとえば、
神に向かって、
「あなたは勇気があって立派ですね」
と評価するのは、どこかおかしい。
なぜなら、
評価する側の人間が、
神を自分たちと同じ物差しで測っていることになるからです。
だから最高のものについては、
「良くできました」
というようにほめるのではなく、
それ自体を尊び、祝福する
という態度のほうがふさわしい。
アリストテレスは幸福も、
こちら側に置いています。
エウドクソスの快楽論
「ほめられないからこそ、もっと上ではないか」
ここでエウドクソスという哲学者が登場します。
エウドクソスは、
快楽が最高善である
と強く主張した人物です。
アリストテレスは、この結論そのものをそのまま受け入れているわけではありません。
ただし、
エウドクソスの議論の仕方には、
「なるほど」と認められるところがある
としています。
エウドクソスは、
快楽は普通、
「立派ですね」
とほめるような対象ではない。
それにもかかわらず、多くの人がそれを善いものだと考えている。
ならば、
快楽は、
ほめられる善よりさらに根本的な善なのではないか
と考えました。
この発想をアリストテレスは、
幸福を理解するうえでは参考になると見ています。
つまり、
最高の善は、ほめられる対象ではなく、それを基準としてほかのものが評価される側にある
という発想です。
徳は「ほめられる」、幸福は「尊ばれる」
徳には「何を生み出すか」がある
ここを整理すると非常に分かりやすいです。
勇気
→ 勇気ある行動につながるので、ほめられる。
正義
→ 正しい行動につながるので、ほめられる。
節制
→ 欲望を適切に整えた生き方につながるので、ほめられる。
つまり徳は、
善い活動を可能にする優れた人格
として評価されます。
一方、
幸福
には、その先がありません。
幸福によって、
さらに別の最高目的を得るわけではない。
だから幸福は、
「何かのために優れているもの」ではなく、「それ自体で最終的に価値があるもの」
なのです。
これが、
「幸福は、ほめられるものではなく、尊ばれるもの」
という意味です。
幸福は「第一原理」でもある
私たちの行動は、最終的に幸福から説明される
今回の最後で、
アリストテレスは幸福を、
「第一原理」
のようなものだと言います。
少し難しい表現ですが、
ここでは、
私たちのさまざまな行動を最終的に説明する出発点
くらいに考えると分かりやすいです。
たとえば、
なぜ働くのか。
お金を得るため。
なぜお金を得たいのか。
安心して暮らしたいから。
なぜ安心して暮らしたいのか。
より良く生きたいから。
こうして「なぜ?」を繰り返すと、
最後には、
「幸福に生きたいから」
というところへ行き着きます。
だから幸福は、
行動の最後にある「目的」であると同時に、
私たちがほかのものを選ぶ理由を与える出発点
でもあります。
少し面白い構造です。
幸福は、
ゴールでありながら、判断の基準でもある。
「幸福は最高善」という意味がさらに明確になってきた
これまで『ニコマコス倫理学』では、
幸福について少しずつ条件が加えられてきました。
まず、
幸福はそれ自体のために求められる最終目的。
そして、
幸福は自己充足的である。
さらに、
幸福は徳に従った魂の活動。
しかも、
一生を通じて続く活動。
そして今回、
さらにもう一つ加わりました。
幸福は、ほめられる対象ではなく、それ自体として尊ばれる最高の価値である。
「幸福」は数ある善の一つではない
この一節を理解するうえで、一番重要なのはここだと思います。
アリストテレスにとって幸福は、
お金、
健康、
友情、
名誉、
快楽、
徳
と横並びになっている、
「良いものリストの一項目」
ではありません。
むしろ、
それら全部について、
「それは良い人生にどう関係するのか」
を判断するための基準です。
だから幸福は、
「善いものの一つ」
というより、
善いものを統合し、人生全体を完成させる最高善
なのです。
この一節の核心
今回の核心をまとめるなら、
「徳のようなものは、善い行動を生み出すからほめられる。しかし幸福は、何か別のもののために価値があるのではない。幸福そのものが、私たちがほかのあらゆる善を求める最終的な理由である。」
ということです。
さらに短く言えば、
「幸福は“ほめる対象”ではなく、“何が本当に善いかを測る最終基準”である。」
ということになります。
これまでアリストテレスは、幸福の「中身」をかなり詳しく定義してきました。
今回の一節ではさらに、
その幸福が、ほかの善と比べてどのような位置にあるのか
まで整理したわけです。