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新しい考えが受け入れられない最大の理由【Introduction】

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ある人たちは、自分たちが持っている形而上学の知識が古くから受け継がれてきたものだから、それだけで正しく、正当なものだと思い込んでいます。

そういう人たちは、昔ながらの形而上学の教科書を手にしながら、私のように根本から疑問を投げかける者を、見下すように眺めるでしょう。

また別の人たちは、自分が以前に見たことのあるものとまったく同じでなければ、新しいものを理解することができません。

そういう人たちには、私が何を言っているのかさえ理解されないでしょう。

そのため、しばらくのあいだは、まるで何事も起きなかったかのように、これまでと同じ状態が続くでしょう。

形而上学に大きな変化が起ころうとしていることについて、危機感を持つ人も、期待を抱く人も、ほとんど現れないかもしれません。

目次

深掘り解説

この一節は、前回の

「形而上学そのものを疑えば、あらゆる方向から反発されるだろう」

という話の続きです。

今回は、その反発がどんな形で現れるのかを、カントが二種類の人間に分けて説明しています。

一つは、

「昔からあるのだから正しい」と考える人。

もう一つは、

「自分がすでに知っているものと同じ形でなければ、新しいものを理解できない人。

です。

そしてカントは、こういう人たちがいるため、本当に大きな思想の変化が起きても、最初はほとんど誰にも気づかれないと言っています。

「古いから正しい」という考えへの批判

原文では、

ancient, and therefore considered legitimate

とあります。

つまり、

古くから存在している。だから正当なものだ。

という発想です。

カントはここに皮肉を込めています。

ある考えが何百年も続いていると、それだけで、

「これだけ長く続いているんだから、正しいに違いない」

と思いやすくなります。

しかし、

長く信じられてきたことと、真理であることは別です。

形而上学には長い歴史があります。

神、魂、世界、自由について、膨大な書物が書かれてきた。

大学でも教えられてきた。

教科書もある。

専門家もいる。

すると自然に、

「これだけ立派な伝統があるのだから、形而上学という学問は当然成立している」

と思ってしまう。

カントはまさに、その前提を疑っています。

「歴史が長いからといって、学問として正しいことの証明にはならない」

ということです。


「教科書があるから学問だ」とは限らない

ここで出てくる、

metaphysical compendia

は、形而上学の概説書や教科書のようなものです。

すでに体系化された形而上学があって、それをまとめた本が存在する。

すると、その本を持っている人からすれば、

「形而上学は可能なのか?」

というカントの問い自体が、ばかげて見えるわけです。

「いや、ここに形而上学の教科書がありますけど?」

となる。

しかしカントからすれば、

教科書が存在することと、その内容が本当の知識であることは別問題です。

これはかなり大事なところです。

たとえば、ある分野について500ページの立派な本があったとしても、

その本の前提そのものが間違っている可能性はあります。

体系が整っていることと、真理であることは同じではありません。

カントは、

「完成された形になっているから正しい」という思い込み

を壊そうとしています。


なぜ彼らはカントを「見下す」のか

原文では、

look down on him with contempt

とあります。

単に反論するのではなく、

「そんなことも分からないのか」という態度で見下す

というニュアンスです。

これは、新しい考えが出てきたときによく起きることです。

既存の専門家からすると、

その分野の「常識」を疑う人は、無知に見えることがあります。

たとえば、

「形而上学はそもそも可能なのか?」

とカントが聞く。

従来の形而上学者からすれば、

「何を今さら。何百年も研究されてきただろう」

となる。

でもカントは、

その“何百年も研究してきた”という事実こそ問題にしている。

何百年やっても進歩していないのなら、

今までの方法そのものを疑う必要があるのではないか。

つまり両者は、そもそも問題を見ている階層が違います。


もう一種類の人――「知っているものしか見えない人」

後半のほうが、さらに面白いです。

who never see anything except it be identical with what they have seen before

かなり意訳すると、

「過去に見たものと同じ形でなければ、それを見ることすらできない人」

です。

つまり新しい思想に出会っても、

自分がすでに持っているカテゴリーに当てはめて理解しようとする。

「これはデカルトみたいなものだ」

「これはライプニッツの言い換えだ」

「これは昔の〇〇と同じだ」

と判断する。

すると、

本当に新しい部分が見えなくなる。

これは、以前の一節でカントが批判していた、

「新しい考えが出ても、昔の誰かが似たことを言っていたと探し出す人」

ともつながっています。


新しいものは「既存の分類」に入らないから新しい

ここはかなり重要です。

本当に新しい発想というものは、

最初は既存の枠組みでは理解しにくいことがあります。

なぜなら、

その枠組みそのものを変えようとしているからです。

カントの場合もそうです。

従来の哲学者たちは、

「世界とは何か?」

を考えていました。

カントは、

「その前に、人間はどうやって世界を認識しているのか?」

と問い始めます。

だから、単に、

「カントは世界についてこういう説を出した」

と捉えると、本当の新しさを見逃します。

カントが変えたのは答えだけではなく、

問いの立て方そのもの

だからです。


だから「理解されない」

カントは、

「反対される」

だけでなく、

「理解すらされない」

と言っています。

これは重要な違いです。

反論というのは、

相手の主張を理解したうえで、

「私は違うと思う」

ということです。

しかしカントが心配しているのは、

その前の段階です。

既存の考え方とあまりにも違うため、

「カントが何を問題にしているのか自体が伝わらない」

可能性がある。

すると議論にすらならない。

新しい思想が登場したときには、このようなことが起こるというわけです。


「何も起こらなかったかのように」世界は続く

原文の最後は、

everything will remain for a time, as if nothing had happened

です。

これは非常に印象的です。

カント自身は、

形而上学を根本から変えるような問題を提出している

つもりです。

しかし世間から見ると、

何も変わらない。

大学では今までと同じ授業が行われる。

従来の教科書が読まれる。

学者たちは従来の議論を続ける。

つまり、

知的革命が起こっているのに、しばらく誰も気づかない。

カントはそう考えています。


「危機」なのか「希望」なのかも、まだ分からない

最後には、

concern, or the hope, for an impending change

とあります。

つまり、これから起こる変化について、

不安を持つことも、期待を持つこともない。

なぜなら、そもそも変化が始まっていることに気づいていないからです。

しかしカントからすれば、これは形而上学にとって非常に大きな転換です。

既存の形而上学者にとっては、

自分たちの学問が崩れるかもしれない危機。

一方でカントにとっては、

ようやく形而上学を本当の学問として作り直せるかもしれない希望。

同じ出来事が、両方の意味を持っています。


この一節の核心

この一節を一言でまとめるなら、

「新しい考えが受け入れられない最大の理由は、人が古いものを正しいと思い込み、新しいものまで古い枠組みで理解しようとするからだ」

ということです。

カントが批判しているのは、単なる頑固さだけではありません。

もっと深い、人間の知性の癖です。

私たちは、

「昔からあるもの=正しい」

と思いやすい。

そして新しいものに出会っても、

「これは昔の何に似ているか?」

と考えてしまう。

しかし、それでは本当に新しい発想を理解できないことがあります。

ここまでの序文をつなげると、カントがなぜこれほどしつこく「一度立ち止まれ」と言っているのかが見えてきます。

過去の形而上学をいったん脇に置く。
既存の教科書も権威もいったん脇に置く。
そして、

「そもそも人間に形而上学は可能なのか?」

という問いを、最初から考え直す。

カントは読者にも、まさにその姿勢を求めているのです。

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