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BOOK 1 8

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ただし、私たちは幸福について、これまでの議論や結論だけから考えるのではなく、世間で一般に言われていることとも照らし合わせて考えなければならない。

なぜなら、正しい考えであれば、さまざまな事実や意見とうまく調和するはずだからである。

反対に、間違った考えであれば、すぐに現実との食い違いが出てくる。

さて、善いものは昔から、大きく三つに分けられてきた。

一つは、財産や地位などの「外的な善」。

一つは、健康や容姿などの「身体に関する善」。

そしてもう一つが、「魂に関する善」である。

この中で、最も本当の意味で善と呼ぶべきなのは、魂に関する善である。

そして、人間の行動や活動も、魂に関するものに含まれる。

だとすれば、

「幸福とは、徳に従った魂の活動である」

という私たちの考えは、昔からの考え方とも一致していることになる。

また私たちは、幸福という最終目的を、

何かを所有することではなく、

ある行動や活動そのもの

だと考えている。

この点でも、幸福は外的な善ではなく、魂に関する善に属している。

さらに、

「幸福な人とは、よく生き、よく行動する人である」

という一般的な考えとも一致する。

実際、私たちは幸福を、

「善く生きること」
「善く活動すること」

とほとんど同じ意味で定義してきた。

そして人々が幸福に必要だと考えているものも、私たちの定義の中にほぼ含まれているように思われる。

幸福とは徳だと考える人もいる。

実践的な知恵だと考える人もいる。

哲学的な知恵だと考える人もいる。

また、

これらのうちの一つ、
あるいはいくつかと快楽が結びついた状態

を幸福だと考える人もいる。

さらに、外的な豊かさまで幸福に含める人もいる。

こうした考えの中には、昔から多くの人が唱えてきたものもあれば、少数の優れた人々が唱えてきたものもある。

これほど多くの人々や優れた人々が考えてきたことが、すべて完全に間違っているとは考えにくい。

むしろ、それぞれが何らかの点では正しく、場合によっては大部分において正しいと考えるほうが自然だろう。

幸福とは徳、あるいは何らかの徳であると考える人々と、私たちの考えはよく一致している。

なぜなら、徳に従って活動することこそ、徳の働きだからである。

しかし、

最高善を「徳を持っていること」に置くのか、

「実際に徳を使って活動すること」に置くのかでは、

大きな違いがある。

単に徳のある状態でいるだけなら、実際には何の善い結果も生み出さない場合がある。

たとえば、

眠っている人や、

何らかの理由でまったく活動していない人でも、

徳を持っていることはできる。

しかし、「徳に従って活動する」という場合にはそうではない。

その人は必ず実際に行動しており、しかも善く行動していることになる。

オリンピック競技でも同じである。

最も美しい人や最も体格のよい人が勝者として冠を受け取るのではない。

実際に競技に参加した人の中から、勝者が生まれる。

人生においても同じである。

善いものや立派なものを本当に手に入れるのは、

実際に行動する人なのである。

そして、徳に従って生きる人生は、それ自体が楽しいものでもある。

なぜなら、何を楽しいと感じるかは、その人の心のあり方によって決まるからだ。

馬が好きな人にとっては、馬を見ることが楽しい。

見世物が好きな人にとっては、見世物を見ることが楽しい。

それと同じように、

正義を愛する人にとっては、正しい行動をすることが楽しい。

徳を愛する人にとっては、徳に従って行動することそのものが楽しい。

多くの人の場合、さまざまな快楽が互いにぶつかり合う。

それは、その人たちが楽しいと感じているものが、本来の意味で自然に善いものとは限らないからである。

しかし、立派なものを愛する人は、本来それ自体で善く、自然に楽しいものを楽しむ。

徳に従った行動は、まさにそのようなものである。

だから、徳のある人にとって、善い行動は自然に楽しい。

したがって、徳ある人の人生には、

外から追加される飾りのような快楽は必要ない。

その生き方そのものの中に、すでに快楽が含まれているからである。

それどころか、立派な行動をしても少しも喜びを感じない人を、本当に善い人と呼ぶことはできない。

正しいことをしても嫌で仕方がない人を、本当に正義の人とは呼ばないだろう。

人に惜しみなく与えることを苦痛にしか感じない人を、本当に寛大な人とは呼ばない。

ほかの徳についても同じである。

そうだとすれば、徳に従った行動は、それ自体で楽しいものでなければならない。

しかも、それらは楽しいだけではない。

善く、立派なものでもある。

そして、

善い、
立派である、
楽しい

というこれらの性質を、徳ある人は正しく判断する。

したがって幸福とは、

最も善く、

最も立派で、

最も楽しいもの

である。

これら三つは、別々のものではない。

昔、デロス島の碑文には、

「最も立派なのは、最も正しいこと。
最も良いのは健康。
最も楽しいのは、愛するものを手に入れること」

と書かれていた。

しかし私たちの考えでは、

最高の活動には、

善さも、
立派さも、
楽しさも、

すべて一緒に備わっている。

そして、そのような最高の活動こそが、幸福なのである。

ただし、前にも述べたように、幸福にはある程度の外的な善も必要である。

なぜなら、必要な条件が何もなければ、立派な行動をすることが不可能だったり、非常に難しくなったりするからである。

私たちは、多くの行動をするときに、

友人、
財産、
社会的な力や立場

などを、いわば道具として使う。

また、外的なものの中には、それが欠けていると幸福の輝きを弱めてしまうものもある。

たとえば、

良い家柄、
良い子ども、
容姿の良さ

などである。

非常に容姿に恵まれない人や、

出自に恵まれない人、

まったく孤独で、子どももいない人を、

完全に幸福だとは考えにくい。

まして、

子どもや友人がひどい人間だったり、

良い子どもや友人を死によって失ってしまったりすれば、

幸福だと言うことはさらに難しくなる。

だから、以前にも述べたように、

幸福には、ある程度の外的な恵まれた条件も必要なように思われる。

そのため、

幸福とは幸運である

と考える人もいるし、

幸福とは徳である

と考える人もいるのである。

深掘り解説

この一節でまず重要なのは、アリストテレスが自分の理論を、

「自分の論理だけで完成させようとしていない」

ということです。

彼は、

正しい理論なら、現実や人々の経験ともある程度一致するはずだ

と考えます。

これはかなりアリストテレスらしい姿勢です。

前回、

幸福=徳に従った魂の活動

という大きな結論を出しました。

しかし、

「論理的にそうなったから、これで終わり」

とは言わない。

一般の人々が幸福についてどう考えてきたのか。

昔の哲学者たちは何を言ってきたのか。

実際の人生を見るとどうなのか。

そうしたものと照らし合わせて、

理論が本当に現実に耐えられるのか

を確認しています。


まず出てくるのが、

善の三分類

です。

外的な善。

身体の善。

魂の善。

たとえば、

外的な善なら、

財産、
友人、
社会的地位。

身体の善なら、

健康、
体力、
容姿。

魂の善なら、

知恵、
勇気、
正義、
節制などの徳。

この中でアリストテレスは、

魂の善を最も本質的な善

だと考えます。

だから幸福の中心も、

お金や健康ではなく、

魂がどのように活動しているか

に置かれます。


そして、ここでも改めて、

幸福は「所有」ではなく「活動」だ

という考えを強調します。

ここは前回から続く非常に重要なテーマです。

たとえば、

勇気がある。

正義感がある。

知識がある。

というだけでは、まだ幸福ではありません。

アリストテレスは極端な例として、

眠っている人

を出します。

勇気のある人でも、寝ている間は勇気を発揮していません。

正義の人でも、眠っている間は正義の行動をしていません。

つまり、

性質を持っているだけでは、人生はまだ動いていない。

幸福とは、

その良い性質を、実際の人生の中で使っていること

なのです。


ここで出てくるオリンピックの例えは、とても分かりやすいです。

アリストテレスは、

「一番体格がいい人が勝つわけではない」

と言います。

どれだけ才能があっても、

競技に出なければ勝てない。

人生も同じです。

頭がいい。

人格がいい。

能力がある。

可能性がある。

それだけでは足りない。

実際にやる人が、人生の善を手に入れる。

かなり現代的にも響く話です。

アリストテレスにとって、

徳とは飾りではありません。

使われるための能力

なのです。


そして今回、とても面白いのが、

徳と快楽の関係

です。

普通に考えると、

「徳を選ぶ人生」

と

「楽しい人生」

は対立するようにも見えます。

立派に生きるためには我慢が必要で、

快楽はある程度捨てなければならない。

そう考えがちです。

しかしアリストテレスは、

完成した徳のある人では、善い行動そのものが楽しい

と言います。


たとえば、

正しいことをするたびに、

「嫌だなあ」
「本当はズルしたいなあ」
「仕方ないから正しくしよう」

と感じている人がいたとします。

その人は、

正しい行動はしています。

でもアリストテレスからすると、

まだ完全な意味では正義の人ではない。

本当に正義を身につけた人は、

正しく行動すること自体に喜びを感じる。

これが重要です。


たとえば寛大な人なら、

誰かのためにお金や時間を使うとき、

「もったいない」
「嫌だけど我慢しよう」

ではなく、

自然に喜びを感じる。

勇気ある人なら、

必要な場面で勇気を発揮することが、

その人自身の価値観と一致している。

つまり、

徳が習慣として人格にまで浸透すると、善い行動と快楽が一致する

のです。


これは『ニコマコス倫理学』のかなり重要な考えです。

良い人とは、

欲望と戦いながら、歯を食いしばって善いことをする人

だけではありません。

むしろ理想は、

善いことをしたいと思い、善いことをして、それを楽しいと感じる人。

理性、

感情、

欲望、

行動

が同じ方向を向いている。

これが、成熟した徳の状態です。


だからアリストテレスは、

幸福には、

善
美・立派さ
快楽

の三つが全部含まれると言います。

これはかなり大きなポイントです。

善い人生と、

楽しい人生と、

立派な人生は、

本来バラバラではない。

完全な幸福では、

これらが一つになる。

徳に従って生きることそのものが、

善く、

立派で、

しかも楽しい。


ところが、このあとアリストテレスは、かなり現実的な方向へ話を戻します。

「とはいえ、徳だけでは足りない」

と言います。

ここが非常に重要です。

もしアリストテレスが、

「どれだけ不幸な目に遭っても、心さえ正しければ完全に幸福です」

と言えば、かなり精神主義的な哲学になります。

しかし彼はそう言いません。


たとえば、

友人が一人もいない。

お金が全くない。

社会の中で何も行動できる立場がない。

大切な人を次々失う。

そうした状況では、

徳を実際に発揮すること自体が難しくなる

と考えます。

なぜなら、

立派な行動には、

ある程度の「材料」が必要だからです。

たとえば、

寛大さを発揮するには、

人に与えられる何かが必要です。

友情という徳を発揮するには、

友人が必要です。

社会に貢献するには、

ある程度の社会的な関係や力が必要です。


だからアリストテレスは、

外的な善は幸福そのものではないが、幸福を実現するための条件にはなり得る

と考えます。

ここを区別すると分かりやすいです。

お金=幸福

ではない。

友人=幸福

でもない。

社会的地位=幸福

でもない。

しかし、

幸福に生きるための助けにはなる。


これは前に出てきた、

「富は最高善ではない」

という話とも矛盾しません。

お金は最高善ではない。

でも、

だからお金なんて一切なくてもいい

とは言っていない。

この辺りがアリストテレスのバランス感覚です。


さらに現代から見ると引っかかりやすいのが、

容姿や家柄や子ども

についての話です。

アリストテレスは、

容姿がひどく悪かったり、

出自に恵まれなかったり、

子どもがいなかったりすると、

完全な幸福は難しくなる

と述べています。

ここは、そのまま現代の価値観として受け入れる必要はありません。

古代ギリシャ社会では、

家柄、
市民としての立場、
家族、
子孫、
社会的評価

が、現代以上に人生の完成と密接に結びついていました。

だからこの部分には、

古代ギリシャ社会の価値観

も強く反映されています。

ただし、その奥にある考えは今でも重要です。

つまり、

人間の幸福は、完全に内面だけで成立するものではない

ということです。


たとえば、

どれだけ精神的に成熟していても、

戦争、

極端な貧困、

重い社会的孤立、

大切な人の連続した死

などは、人生に大きな影響を与えます。

アリストテレスは、

「心の持ち方だけですべて解決する」

とは考えない。

幸福は、

自分の人格だけでなく、

ある程度、世界との関係の中で成立する

と考えています。


ここは、後のストア派との違いとして見ると分かりやすいです。

ストア派はかなり強く、

徳さえあれば幸福である

という方向へ進みます。

外的なものは本質的には幸福を左右しない。

これに対してアリストテレスは、

徳が中心なのは間違いない。しかし、外的条件も完全には無視できない

と考えます。

非常に現実主義的です。


そして、この一節全体を通して見ると、

アリストテレスの幸福像がかなり立体的になってきます。

幸福とは、

ただ快楽を感じることではない。

ただ徳を持つことでもない。

ただお金があることでもない。

むしろ、

徳に従って実際に活動し、
その活動そのものを喜び、
しかもその活動を可能にする最低限の外的条件にも恵まれていること。

こういう人生全体の状態です。


特に大事なのは、

「徳」と「快楽」が最終的には対立しない

という点です。

未熟な段階では、

「やりたいこと」と
「やるべきこと」

がぶつかります。

でも徳が本当に身につくと、

「やりたいこと」と「善いこと」が近づいていく。

正しいことをするのが自然になる。

勇気ある行動をすることに、自分らしさを感じる。

人に善くすることを、苦痛ではなく喜びとして感じる。

これがアリストテレスの考える、

人格が完成していく

ということです。


この一節の核心をまとめるなら、

「幸福とは、徳を持っていることではなく、徳を実際に働かせながら生きること。そして本当に徳のある人にとって、その生き方そのものが喜びになる。」

ということです。

ただし同時に、

「人間は世界から完全に独立して幸福になれるわけではない。徳を発揮して生きるためには、友人や生活基盤など、ある程度の外的な条件も必要である。」

とも言っています。

つまりアリストテレスの幸福は、

内面だけでもない。
外面だけでもない。
人格・行動・快楽・人間関係・生活条件まで含めた、人生全体の“よく生きられている状態”

なのだと思うと、かなり分かりやすくなります。

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