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BOOK 1 7

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ではもう一度、私たちが探している「善」に戻って、それが何なのかを考えてみよう。

善は、それぞれの行為や技術によって違うように見える。

医学における善と、軍事における善は違うし、ほかの技術でも同じである。

では、それぞれの分野における「善」とは何だろうか。

それは、そのためにほかのすべてのことが行われる「目的」ではないだろうか。

医学なら健康。

軍事なら勝利。

建築なら家。

そのほかの分野にも、それぞれ目指すものがある。

つまり、どんな行為や努力にも目的があり、私たちはその目的のために、ほかのことを行っている。

したがって、もし私たちのすべての行為の先に一つの最終目的があるなら、それこそが、人間が行動によって実現できる「善」である。

もし最終目的がいくつかあるなら、それらが人間にとっての善ということになる。

こうして私たちは、別の道を通りながら、結局これまでと同じ地点にたどり着いた。

しかし、もう少しはっきりさせてみよう。

私たちには、たくさんの目的がある。

しかし、その中には、別のものを得るために選ばれるものもある。

たとえば、お金や楽器、さまざまな道具などである。

これらは、それ自体が最終目的ではなく、何か別の目的のために使われる。

したがって、すべての目的が「最終目的」なのではない。

しかし、最高善とは、最終的なものでなければならない。

もし本当の意味での最終目的が一つしかないなら、それこそが私たちの探しているものである。

もし複数あるなら、その中でも最も最終的なものが、私たちの求めている最高善である。

私たちは、

それ自体のために求めるものを、

別のもののために求めるものよりも「より最終的なもの」と呼ぶ。

そして、

別のもののためには決して求めず、
いつでもそれ自体のために求めるものを、

完全な意味での「最終目的」と呼ぶ。

この条件に最も当てはまるのは、幸福であるように思える。

私たちは幸福を、いつでも幸福そのもののために求める。

幸福を、何か別のものを手に入れるための手段として求めることはない。

一方で、

名誉、
快楽、
知性、
そしてさまざまな徳

については、それ自体にも価値があるので、それら自体のためにも求める。

たとえ、それによって何も得られないとしても、私たちはある程度それらを望むだろう。

しかし同時に、それらによって幸福になれると考えるからこそ、私たちはそれらを求めてもいる。

ところが幸福については違う。

幸福を、

名誉を得るため、
快楽を得るため、
徳を得るため

に求める人はいない。

幸福は、何か別のもののためではなく、それ自体のために求められる。

「自己充足」という観点から考えても、同じ結論になる。

最高善は、それだけで人生を満たすものでなければならない。

ただし、「それだけで足りる」と言っても、

一人きりで孤独に生きればよい

という意味ではない。

人間はもともと、ほかの人々と共に生きる存在だからである。

だから幸福を考えるときには、

親、
子ども、
配偶者、
友人、
そして同じ社会に生きる人々

との関係も含めて考えなければならない。

もちろん、先祖や子孫や、友人の友人まで無限に広げていけばきりがない。

だから、どこかで限度を設ける必要はある。

この問題については、また別の機会に考えることにしよう。

ここでいう「自己充足」とは、

それだけで人生を生きる価値のあるものにし、

大切なものが欠けていない状態

という意味である。

そして幸福こそ、そのようなものだと私たちは考える。

さらに幸福は、ほかの善と横並びに並ぶ「善の一つ」でもない。

もし幸福が、ほかの善と並ぶ一つの善にすぎないなら、

そこにほんの少しでも別の善を加えれば、

幸福はさらに良いものになるはずである。

しかし私たちは、幸福をそのようなものとは考えていない。

幸福は、それ自体で完成した最高の善なのである。

したがって幸福とは、

最終的であり、

自己充足的であり、

人間のあらゆる行為が最終的に目指す目的なのである。

しかし、

「幸福こそ最高善である」

と言うだけでは、まだ当たり前のことを言ったにすぎない。

私たちが本当に知りたいのは、

「では、幸福とは具体的に何なのか」

ということである。

これを明らかにするには、

まず「人間に固有の働きとは何か」を考えてみればよいのではないだろうか。

たとえば、

笛を吹く人、
彫刻家、
さまざまな職人

には、それぞれ固有の仕事や働きがある。

そして、その人にとっての「善さ」は、

その働きを優れた仕方で行うことにある。

だとすれば、人間にも固有の働きがあるなら、

人間にとっての善も、そこから分かるのではないだろうか。

大工にも仕事があり、

革職人にも仕事がある。

それなのに、

「人間そのもの」には固有の働きが何もないのだろうか。

人間は、何の役割もなく生まれてきたのだろうか。

目には見るという働きがあり、

手には手の働きがあり、

足には足の働きがある。

身体のそれぞれの部分に固有の働きがあるのなら、

人間全体にも、人間としての固有の働きがあると考えるべきではないだろうか。

では、それは何なのか。

ただ「生きている」というだけなら、植物にも当てはまる。

しかし私たちは、人間に固有のものを探している。

だから、

栄養を取り、
成長する

という生命活動は除こう。

では、

見る、
聞く、
感じる

といった感覚の働きだろうか。

しかしこれも、

馬や牛、そのほかの動物にもある。

したがって、これも人間に固有とは言えない。

残るのは、

「理性に関わる生」

である。

人間の魂には、

理性そのものを持ち、自分で考える部分と、

自分自身では理性的に考えないが、理性の言うことを聞き、それに従うことのできる部分

がある。

そして「理性的に生きる」と言っても、

ただ理性を持っているだけなのか、

実際に理性を働かせて活動するのか、

という二つの意味がある。

私たちが重視すべきなのは、実際に活動するほうである。

こちらのほうが、本当の意味で「生きている」と言えるからだ。

したがって、人間に固有の働きとは、

理性に従い、あるいは理性を働かせながら行う、魂の活動である。

ここで、

普通の演奏家と、
優れた演奏家

について考えてみよう。

どちらも演奏するという働きは同じである。

しかし優れた演奏家は、

その働きを「うまく」行う。

竪琴奏者の仕事は竪琴を演奏することだが、

優れた竪琴奏者の仕事は、

竪琴を上手に演奏することである。

同じことが人間についても言える。

人間の働きが、

理性に関わる魂の活動

であるなら、

優れた人間とは、

その活動を優れた仕方で行う人

ということになる。

そして、ある働きが優れた仕方で行われるということは、

その働きにふさわしい「徳」に従って行われるということである。

したがって、人間にとっての善とは、

「徳に従って魂を活動させること」

である。

もし徳がいくつもあるなら、

その中でも最も優れ、最も完成された徳に従って活動することである。

ただし、そこにはもう一つ条件を加えなければならない。

それは、

「一生涯を通じて」

ということである。

一羽のツバメを見ただけで夏になったとは言えない。

一日暖かかっただけでも、夏になったとは言えない。

それと同じで、

一日だけ、あるいは短い期間だけ立派に生きたからといって、

その人の人生全体を幸福だったとは言えない。

幸福とは、一生を通じて成り立つものなのである。

ひとまず、人間の善についての大まかな輪郭は、これでよいだろう。

まず全体像をおおまかに描き、そのあとで細部を埋めていけばよい。

一度きちんと輪郭が描かれれば、その続きを詳しくしていくことは誰にでもできる。

時間そのものも、このような探究を進める助けになる。

さまざまな技術や学問が発展してきたのも、人々が少しずつ不足している部分を付け加えてきたからである。

そして、前にも言ったことを忘れてはいけない。

あらゆる問題について、同じ程度の厳密さを求めてはならない。

その対象にふさわしい程度の正確さを求めればよい。

たとえば、大工と幾何学者は、どちらも直角を扱う。

しかし、その扱い方は違う。

大工は、

自分の仕事に必要な範囲で直角を理解すればよい。

一方、幾何学者は、

直角とは何なのか、
どのような性質を持つのか

そのものを研究する。

幾何学者は、真理そのものを知ることを目的としているからである。

ほかの問題についても、同じように考えなければならない。

細かい問題ばかりを追いかけて、本来の目的を見失ってはいけない。

また、どんな問題についても、

「なぜそうなのか」

という原因を同じように求める必要もない。

場合によっては、

「実際にそうである」

という事実が十分に確立されていれば、それでよいこともある。

とくに出発点となる原理についてはそうである。

原理こそ、まず最初に押さえるべきものだからだ。

私たちは原理を、

ある場合には帰納によって知り、

ある場合には感覚によって知り、

ある場合には習慣によって身につけ、

また別の場合には別の仕方で知る。

したがって、それぞれの原理について、

その性質にふさわしい方法で探究しなければならない。

そして、出発点をできるだけ正しく定めることには、大きな意味がある。

なぜなら、

「始まりは全体の半分以上である」

と言われるほど重要だからだ。

出発点を正しく理解するだけで、その後に出てくる多くの疑問も自然と解けていくのである。

深掘り解説

この一節は、『ニコマコス倫理学』第1巻の山場の一つです。

アリストテレスはここで、ついに幸福をかなり具体的に定義します。

それが、

「幸福とは、徳に従った魂の活動である」

という有名な考えです。

ただ、この結論に至るまでに、いくつかの重要な段階があります。


まずアリストテレスは、

「最高善には“最終性”が必要だ」

と考えます。

これまでにも出てきた話ですが、今回はかなり明確に整理されています。

たとえば、お金が欲しい。

しかし、

「なぜ?」

と聞けば、

生活するため、
好きなことをするため、
安心するため、

など、その先があります。

つまりお金は、

手段

です。

笛などの楽器もそうです。

それ自体を所有することが最終目的ではなく、

演奏するためにある。


では、

何のため?

と問い続けても、さらに先の目的が出てこないものは何か。

アリストテレスは、

幸福

だと言います。

たとえば、

「なぜお金が欲しいの?」

「幸せに暮らしたいから」

は自然です。

しかし、

「なぜ幸せになりたいの?」

と言われたら、

少し奇妙になります。

普通は、

「幸せであること自体が望ましいから」

としか言えない。

つまり幸福には、

その先がない。

これが幸福の「最終性」です。


ただし面白いのは、

名誉や快楽や徳なども、

単なる手段ではない

とアリストテレスが認めていることです。

快楽は快楽そのもののためにも欲しい。

友人に褒められることも、それ自体嬉しい。

知恵や徳も、それ自体価値がある。

しかし同時に、

「それらによって幸福になる」

という理由でも求めています。

だから、

名誉や徳は、

それ自体も望ましいが、さらに幸福のためにも望まれる。

幸福だけが、

常にそれ自体のためだけに望まれる。

この違いによって、幸福が最上位に置かれます。


そして次に出てくるのが、

自己充足性

です。

ここは現代的な「自立」と少し違うので注意が必要です。

アリストテレスの言う自己充足とは、

「他人なんて必要ない。一人ですべてできる」

という意味ではありません。

むしろ正反対です。

彼は、

人間は本質的に社会的な存在である

と考えています。

だから幸福な人生には、

家族、

友人、

共同体、

市民としての関係

も含まれる。

つまり、

「幸福とは孤立して完成するものではない」

のです。


ここはかなりアリストテレスらしいところです。

現代では、

「自分さえ満足していれば幸福」

という考え方もできます。

しかしアリストテレスにとって、

人間は最初から、

他者と関わりながら生きる存在

です。

だから、

人間関係が完全に破壊され、

共同体から切り離され、

一人だけ快適に過ごしている状態を、

理想的な幸福とは考えにくい。

幸福とは、

「人間としての生全体がよく成り立っていること」

なのです。


そして、このあと一気に重要な話に入ります。

アリストテレス自身も、

「幸福が最高善だと言うだけでは、まだ何も分かっていない」

と認めます。

そこで、

「では、人間の固有の働きとは何なのか」

という問いを立てます。

これが有名な、

機能論(エルゴン論)

です。


考え方はシンプルです。

笛奏者なら、

笛を吹くこと。

大工なら、

建物を作ること。

目なら、

見ること。

足なら、

歩くこと。

それぞれには、

そのものに特有の働き

があります。

そして、

良い笛奏者とは、

笛を「上手に」吹く人。

良い目とは、

「よく見える」目。

つまり、

あるものの善さは、その固有の働きをどれだけ優れて行えるかによって決まる

とアリストテレスは考えます。


では、

人間に固有の働きとは何か。

ここで消去法が使われます。

まず、

生きて成長すること。

これは植物にもあります。

だから人間固有ではない。

次に、

感覚を持つこと。

見る、聞く、感じる。

これは動物にもあります。

だから、これも人間固有ではない。

残るのは、

理性に関わる活動

です。


だからアリストテレスは、

「人間の固有性は理性にある」

と考えます。

ただし、

「頭が良ければ幸福」

という単純な意味ではありません。

彼の言う理性には、

自分で考えることだけでなく、

欲望や感情を理性に従わせること

も含まれています。

たとえば、

「腹が立った」

という感情そのものは理性的ではありません。

しかし、

「腹が立っている。でも、ここで怒鳴るのは適切ではない」

と理性によって感情を整えることができる。

アリストテレスが考える人間の優れた生き方には、

こうした、

感情・欲望と理性との調和

も含まれています。


さらに重要なのが、

「理性を持っているだけでは足りない」

ということです。

ここは前の一節ともつながります。

徳を持っている。

知識を持っている。

可能性を持っている。

それだけでは幸福とは言えません。

なぜなら、

幸福とは活動だからです。

たとえば、

最高のピアノ演奏能力を持つ人が、

一生一度もピアノを弾かなかった。

それでは、

「優れた演奏家として生きた」

とは言えません。

同じように、

勇気を持っていると言いながら、

一度も必要な場面で勇気を発揮しなかった。

正義感があると言いながら、

実際には一度も正しく行動しなかった。

それでは幸福とは言えない。


だから、

「人間の善=徳を所有すること」

ではなく、

「徳に従って活動すること」

になります。

ここは非常に重要な違いです。

幸福とは、

何かを「持つ状態」

ではなく、

ある仕方で生き続けること

なのです。


そして、

普通の竪琴奏者と、

優れた竪琴奏者

の違いから、

アリストテレスはもう一歩進みます。

両方とも竪琴を弾きます。

違いは、

どう弾くか

です。

同じように、

普通の人間も、優れた人間も、

考え、

選び、

行動します。

違いは、

それをどれだけ優れた仕方で行うか。

その「優れた仕方」が、

徳(アレテー)

です。

したがって、

幸福とは、徳に従って理性的な活動を行う人生

だという結論になります。


そしてここで、有名な一文が出てきます。

「一羽のツバメが来たからといって、夏になったわけではない。」

これはとても分かりやすい比喩です。

今日一日、

素晴らしい行動をした。

それだけで、

「幸福な人生だった」

とは言えない。

一週間だけ立派に過ごした。

それでも足りない。

幸福は、

人生全体

で評価されるものだからです。


これはアリストテレスの幸福が、

「幸せな気分」

とは全然違うことをよく表しています。

今日、

すごく楽しい。

ものすごく気分がいい。

それは幸福の一部にはなり得ます。

しかし、それだけで、

エウダイモニア

とは言えない。

逆に、

今日嫌なことがあった。

悲しかった。

失敗した。

だからといって、

人生全体が不幸になったわけでもない。

つまりアリストテレスの幸福とは、

その瞬間の感情ではなく、人生全体の出来栄え

なのです。


ここまでを一本につなげると、かなりきれいです。

人はさまざまなものを求める。

↓

しかし、その多くは別の目的のための手段である。

↓

最終的に、それ自体のために求められるものがある。

↓

それを私たちは「幸福」と呼んでいる。

↓

では幸福とは何か。

↓

そのものの善さは、その固有の働きをよく行うことにある。

↓

人間固有の働きは、理性に関わる活動である。

↓

したがって、人間の善とは、

理性的な魂の働きを、徳に従って優れた仕方で行うこと。

↓

しかも一瞬ではなく、

人生全体を通じて。

これが、この一節の論理です。


最後の方法論の話も、地味ですが大切です。

アリストテレスは、

「今示した幸福の定義は、とりあえず下書きである」

と言います。

まだ完成ではない。

これから、

徳とは何か、

勇気とは何か、

節制とは何か、

正義とは何か、

知恵とは何か、

友情とは何か、

快楽とは何か、

と細かく見ていきながら、最初に描いた幸福の輪郭を埋めていく。

つまり『ニコマコス倫理学』の残りの大部分は、

この一節で描いた幸福のスケッチを詳しく描き込んでいく作業

とも言えます。


そして、

「対象に応じた精密さを求めよ」

という話も再登場します。

大工にとって重要なのは、

直角について哲学的に完璧に理解することではありません。

正確に家を建てられればよい。

一方、幾何学者は、

「直角とは何なのか」

そのものを知ろうとする。

どちらが正しい・間違っているではありません。

目的が違う。

倫理学も同じです。

『ニコマコス倫理学』の目的は、

幸福について完璧な抽象理論を作ることではない。

実際に、よりよく生きられるようになること

です。

だから、

細かい理論上の問題ばかりに入り込み、

「では、どう生きるのか」

を忘れてはいけない。


この一節の核心は、かなり明確です。

幸福とは、何かを所有することでも、一時的に気分が良いことでもない。人間に固有の理性的な能力を、徳に従って実際に働かせながら、一生を生きていくことなのである。

さらに短くするなら、

「幸福は“状態”ではなく、“優れた生き方そのもの”である。」

ということです。

そしてここから『ニコマコス倫理学』は、

「では、その“徳”とは具体的に何なのか?」

へ進んでいきます。

ここまでの第1巻は、まさにその問いに入るための巨大な土台作りだった、と見ると全体がかなりつながって見えてきます。

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