いつも、次のことを忘れないようにしなさい。
宇宙全体とは、どのようなものなのか。
そして、自分自身の本性とは、どのようなものなのか。
自分という存在は、その宇宙全体とどのようにつながっているのか。
自分は、どのような「全体」の中の、どのような「一部分」なのか。
そのことを理解しておきなさい。
そして、自分が属している自然のあり方に従って、
正しいと思うことを言い、
正しいと思うことを行うことは、
本当は誰にも妨げることができない。
他人がどう思うか。
状況がどう変わるか。
何が自分の身に起こるか。
そうしたものに左右されず、
自分はいつでも、自分が属している自然にふさわしい生き方を選ぶことができるのだ。
この一節の核心
自分は世界から切り離された存在ではない。そして、どんな状況でも「自分はどう生きるか」だけは自分で選べる。
マルクス・アウレリウスは、自分を孤立した一人の人間としてではなく、宇宙全体の一部として捉えています。
だからこそ、自分の役割は、世界を思い通りにすることではありません。
自分が属している世界の中で、人間としてふさわしい言葉と行動を選ぶこと。
そこだけは、他人にも運命にも奪うことができない。
これが、この一節の核心です。
深掘り解説
まず「全体」を思い出す
この一節の最初で、マルクス・アウレリウスは、
what the nature of the Whole is
と言っています。
つまり、
「この世界全体とは、そもそもどんなものなのか。」
を忘れるな、ということです。
『自省録』では何度も、
世界は変化する。
すべてのものは互いにつながっている。
人間も自然の一部である。
という考え方が出てきました。
私たちは普段、自分の目の前の出来事だけを見ます。
仕事がうまくいかない。
誰かに嫌われた。
予定が崩れた。
思った通りにならない。
そうすると、その出来事が世界のすべてであるかのように感じてしまいます。
でもマルクスは、
一度、視点を大きくしろ
と言っています。
自分の悩みも、自分自身も、もっと大きな世界の中に存在している。
その視点を思い出すだけで、目の前の問題との距離が少し変わります。
次に「自分の本性」を考える
その次に出てくるのが、
what my own nature
です。
「自分自身とは、どんな存在なのか。」
という問いです。
ストア哲学では、人間の本性には大きく二つの特徴があります。
一つは、
理性を持っていること。
そしてもう一つは、
他者と協力して生きる社会的な存在であること。
です。
つまり、人間らしく生きるとは、
欲望のままに行動することではありません。
怒りに任せることでもない。
自分だけ得をしようとすることでもない。
理性を使い、
何が正しいかを考え、
他の人間と協力して生きる。
それが、人間の「自然に従った生き方」だとストア哲学では考えます。
「自然に従う」は、本能のまま生きることではない
ここは非常に誤解しやすいところです。
「自然に従って生きる」
と聞くと、
「自分の気持ちに素直に生きればいい。」
という意味に聞こえるかもしれません。
でも、ストア哲学ではほぼ逆です。
腹が立ったから怒鳴る。
欲しいから奪う。
嫉妬したから相手を攻撃する。
これもある意味では「自然に湧いてきた感情」です。
しかしマルクスが言う「自然」は、そういう意味ではありません。
人間には理性がある。
だから、
感情が湧いたあと、それをどう扱うかを考えることこそ人間の本性である。
と考えます。
つまり、
「やりたいことをする」
ではなく、
「人間としてふさわしいことをする」
のが、ここでいう「自然に従う」です。
自分は「全体の一部分」である
この一節では、
what kind of part it is of what kind of Whole
とまで言っています。
つまり、
「私は、どんな全体の中の、どんな一部分なのか。」
を考えなさい、と。
これはかなり重要です。
例えば、手を想像してみます。
手は単独で存在しているわけではありません。
体全体の一部です。
もし右手が、
「私は自分の利益だけを考える。」
と言って左手を攻撃し始めたら、最終的には体全体が傷つきます。
マルクスは、人間社会も同じように見ています。
私たちは一人ひとり独立している。
しかし同時に、人類という大きな共同体の一部でもある。
だから、
自分だけが得をすればいい
という生き方は、全体の中の一部分として不自然なのです。
「自分は何の一部なのか」を忘れると、判断が狂う
例えば、
「自分が得をするためなら、人を騙してもいい。」
と考えたとします。
短期的には得をするかもしれません。
でも、人間社会は信頼によって成り立っています。
全員が同じことをすれば、社会そのものが成り立たなくなります。
だからストア哲学では、
「自分の利益だけ」ではなく、「自分が属している全体との関係」
から行動を考えます。
これは現代でもかなり使える考え方です。
会社の中なら、
「私の部署だけ得をすればいい。」
ではなく、
「会社全体ではどうか。」
地域なら、
「自分だけ便利ならいい。」
ではなく、
「地域全体にとってどうか。」
もっと大きく言えば、
「人間としてどうか。」
という視点になります。
それでも、最後に自分が選べるものがある
この一節の後半が、とてもストア哲学らしいところです。
マルクスは、
no man can hinder your saying and doing at all times what is in accordance with that Nature
と言います。
つまり、
「人間として正しいと思うことを言い、行うことは、誰にも本当の意味では妨げられない。」
ということです。
もちろん、現実には行動を制限されることがあります。
会社で自由にできない。
お金がない。
病気になる。
誰かに反対される。
物理的に拘束されることさえあります。
だから、
「何でも好きなように行動できる」
という意味ではありません。
ここで言っているのは、
その状況の中で、どういう態度を選ぶかは自分に残されている
ということです。
行動を妨げられても、「正しく振る舞うこと」は妨げられない
例えば、
誰かに理不尽なことをされた。
その出来事そのものは、自分では止められなかったかもしれません。
でも、
仕返しをする。
冷静に対応する。
距離を置く。
必要な手続きを取る。
どれを選ぶかは、自分の側にあります。
誰かに悪口を言われたとしても、
相手の口を完全に止めることはできません。
でも、
自分まで悪口を返すかどうかは選べます。
つまり、
外側の自由は奪われることがあっても、内側の判断まで自動的に奪われるわけではない。
これがストア哲学の自由です。
「誰にも邪魔されない」は、成功できるという意味ではない
これも大切です。
マルクスは、
「正しく生きれば、誰にも邪魔されず成功できる。」
とは言っていません。
むしろ、
成功そのものは自分では完全にコントロールできない
と考えます。
例えば、
誠実に商売をした。
でも売れなかった。
正しいことを言った。
でも理解されなかった。
一生懸命働いた。
でも結果が出なかった。
こういうことはあります。
ストア哲学では、
結果よりも、
自分がどう行動したか
を重視します。
成功したかどうかは、自分以外の要因も関わります。
でも、
誠実だったか。
公正だったか。
勇気を持ったか。
理性的に行動したか。
そこは自分が選べます。
この一節は「世界の中の自分の役割を思い出せ」という話
この一節では、
「宇宙全体」
という非常に大きな話から始まり、
最後には、
「自分が何を言い、何をするか」
という非常に小さな話へ戻ってきます。
この流れが面白いところです。
まず、
世界全体を見る。
次に、
その中の自分を見る。
そして最後に、
「では、今の自分はどう行動するのか。」
へ戻る。
つまり哲学は、宇宙について考えて終わりではありません。
最終的には、
今日どう話すか。
目の前の人にどう接するか。
今の仕事をどうするか。
そこへ戻ってくるのです。
自分の「場所」を理解すると、やることはシンプルになる
自分だけを見ていると、
「得したい。」
「評価されたい。」
「負けたくない。」
「嫌われたくない。」
と、いろいろな欲望が出てきます。
でも、
「私は大きな世界の一部であり、人間社会の一員でもある。」
と考えると、
判断基準が変わります。
「この場で、人間として正しい行動は何だろう。」
という問いになります。
マルクスにとっては、それで十分なのです。
世界全体を思い通りにする必要はない。
他人を思い通りにする必要もない。
未来を完全に支配する必要もない。
ただ、
自分に与えられた場所で、人間としてふさわしい行動を選ぶ。
この一節は「世界は支配できない。でも、自分の生き方は選べる」という話
この文章を現代的にまとめるなら、
「世界全体の中で自分がどんな存在なのかを忘れず、自分にできる正しいことを淡々とやれ。」
という教えだと思います。
そして、もっと短く言えば、
「世界を支配しようとするな。自分の生き方を支配せよ。」
ということです。
何が起こるかは選べない。
他人が何をするかも選べない。
しかし、
その中で自分がどんな人間として振る舞うか。
そこだけは、最後まで自分に残されています。