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自省録 第2巻 1

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朝、目が覚めたら、まず自分にこう言い聞かせよう。

今日も、詮索好きな人、恩知らずな人、乱暴な人、裏切る人、嫉妬する人、思いやりのない人に出会うだろう。

でも、その人たちがそのように振る舞うのは、「本当に善いこととは何か、本当に悪いこととは何か」を知らないからだ。

私は、善とは正しいことであり、悪とは間違ったことであると知っている。

そして、間違ったことをする人も、本質的には私と同じ仲間なのだ。

同じ血や家系を持っているという意味ではない。

私たちは同じ理性を持ち、同じ神的なものの一部を分かち合っているという意味で、仲間なのである。

だから、その人たちの誰も、本当の意味で私を傷つけることはできない。

なぜなら、誰かが私に間違ったことをしてきたとしても、その人が私まで間違った人間にすることはできないからだ。

また、私は同じ人間である相手に腹を立てたり、憎んだりする必要もない。

人間は、お互いに争うためではなく、協力するためにこの世界に生まれてきた。

両足や両手、まぶた、上下の歯が、それぞれ協力して一つの働きをするのと同じだ。

だから、人間同士が互いに敵対することは、自然のあり方に反している。

誰かに腹を立て続けたり、その人を嫌って遠ざけようとしたりすることも、結局は人間同士が敵対する方向へ進むことなのである。


目次

この一節の核心

他人がどんな人間であっても、自分まで間違った人間になる必要はない。

世の中には、恩知らずな人も、裏切る人も、乱暴な人もいます。

そういう人に出会うこと自体は避けられません。

でも、その人の言動につられて、自分まで怒りや憎しみに支配され、間違った行動をする必要はありません。

相手がどう振る舞うかと、自分がどう振る舞うかは別の問題です。

相手がどうであれ、自分は正しいと思う行動を選び続ける。

それが、この一節でマルクス・アウレリウスが自分に言い聞かせていることです。


深掘り解説

「嫌な人がいる」のは異常ではない

私たちはつい、

「なんでこんな人がいるんだろう。」

と思ってしまいます。

でもマルクス・アウレリウスは逆です。

朝の時点で、

「今日もそういう人には出会うだろう。」

と想定しています。

これは悲観的なのではなく、現実的なんです。

雨が降る可能性があると分かっていれば、傘を持って出かけられます。

ところが、

「今日は絶対に雨なんて降らない。」

と思い込んでいたら、突然雨が降ったときに腹が立ちます。

人間関係も同じです。

世の中には、自分とは価値観の違う人もいれば、未熟な人もいる。

最初からそれを世界の一部として受け入れておけば、実際にそういう人と出会ったときにも、

「こんな人が存在するなんて信じられない。」

と必要以上に心を乱されずに済みます。


相手は「善と悪を正しく理解していない」

ここがストア哲学らしいところです。

マルクス・アウレリウスは、間違ったことをする人について、

「本当に善いことと悪いことを知らないから、そのような行動をしている」

と考えます。

これは、

「悪いことをする人は、本当は悪気がない。」

という意味ではありません。

本人が意図的に誰かを傷つける場合だってあります。

それでも、その人が「そんな行動こそ自分にとって良い」と考えている時点で、

何が本当の善で、何が本当の悪なのかを見誤っている

とマルクスは考えるわけです。

例えば、人を騙して得をした人がいたとします。

その人は一時的には、

「得をした。自分の勝ちだ。」

と思うかもしれません。

でもストア哲学から見れば、

お金を得る代わりに、自分自身を不誠実な人間にしてしまった。

だから、本当の意味では得をしていない。

むしろ、自分にとって最も大切な「人格」を損なっているのです。


「誰も私を傷つけられない」とはどういう意味か

ここは、この一節で特に重要なところです。

マルクスは、

誰も私を本当の意味では傷つけることができない。

と考えます。

もちろん、現実には人から嫌なことを言われたり、裏切られたり、身体的・金銭的な被害を受けたりすることはあります。

だから、

「何をされても被害など存在しない。」

と言っているわけではありません。

彼が言っている「傷つける」とは、自分の人格を悪くすることです。

誰かに暴言を吐かれたとします。

相手はあなたに嫌な思いをさせることはできます。

しかし、

「だから自分も暴言を吐く。」

と決めるのは自分です。

相手には、

あなたまで不誠実な人間にする力はない。

これが、

「誰も私を間違ったことに巻き込むことはできない」

という言葉の意味です。

だからマルクスにとって、本当に守るべきものは、

「一度も嫌な思いをしないこと」

ではありません。

嫌なことをされても、自分まで間違った行動をしないこと。

なのです。


「相手に勝つこと」より「自分を失わないこと」

例えば、誰かに理不尽なことを言われたとします。

腹が立つ。

言い返したい。

相手をやり込めたい。

これは自然な反応です。

でも、その怒りに任せて自分まで人を傷つけたら、

相手の行動によって、自分の行動まで決められたことになります。

つまり、

自分の人生のハンドルを相手に渡してしまった

とも言えます。

マルクス・アウレリウスが守ろうとしているのは、そこです。

相手が間違っているからといって、自分まで間違う必要はない。

相手を言い負かすことよりも、

自分が自分の信じる正しい行動を選べたか。

そちらの方が重要なのです。


人間は「協力するため」に生まれてきた

最後にマルクスは、

両足、両手、まぶた、上下の歯を例に出します。

右手と左手は、それぞれ別のものです。

でも、本来は争うために存在しているわけではありません。

協力することで、一つの体をうまく動かしています。

上下の歯も同じです。

上の歯と下の歯が本気で争ったら、食べ物を噛むことはできません。

マルクスは、

人間社会も同じだ

と考えます。

人間は一人ひとり別々の存在だけれど、本来は大きな共同体の一部として、お互いに協力するようにできている。

だから、人を憎み続けたり、敵として排除することばかり考えたりするのは、人間本来のあり方から外れているということです。


だからといって「誰とでも仲良くしろ」ではない

ここは現代では特に注意したいところです。

マルクスが、

「人を憎むな」
「人間は協力するために生まれている」

と言っているからといって、

嫌な相手とも無理に付き合い続けなければならない

という意味ではありません。

危険な人から離れる。

信用できない人とは取引しない。

必要なら関係を終わらせる。

そうした判断まで否定しているわけではありません。

大事なのは、

距離を置くことと、憎しみに支配されることは別

だということです。

「この人とは付き合わない。」

と理性的に判断することはできます。

でも、

「あいつが憎い。絶対に許せない。」

という感情を何年も抱え続ければ、結局その人が自分の心の中に居続けることになります。

マルクスが避けたいのは、そういう状態です。


この一節が教えているのは「心の主導権」

この一節全体を現代的にまとめるなら、

自分の心の主導権を他人に渡すな

という教えだと思います。

嫌な人が現れる。

これは自分では選べません。

相手が何を言うか。

これも選べません。

でも、

その言葉をどう受け止めるか。

自分が次にどう振る舞うか。

これは選べます。

だからマルクス・アウレリウスは、一日の始まりにあらかじめ自分へ言い聞かせるのです。

「今日、どんな人に出会ったとしても、その人のせいで自分まで間違った人間にはならない。」

これこそが、この一節の中心にある考え方です。

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