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形而上学そのものを疑えば、あらゆる方向から反発される【Introduction】

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人間の理性は、何か大きな体系を作り上げることをとても好みます。

そのためこれまでにも、立派な塔を建てたあとで、

「そもそも、この塔を支えている土台は本当に大丈夫なのか」

と確かめるために、自分でその塔を壊してしまうようなことを何度もしてきました。

賢くなるのに遅すぎるということはありません。

ただし、間違いに気づくのが遅くなればなるほど、それまでに出来上がったものを改めるのは難しくなります。

「この学問はそもそも可能なのか?」

と問うことは、

「今あるこの学問は、本当に学問として成立しているのだろうか?」

と疑うことでもあります。

しかし、そのような疑いを向けられることを嫌う人たちがいます。

とりわけ、自分の知識や立場のほとんどすべてを、この形而上学という“宝石”に頼っている人たちです。

だから、

「そもそも形而上学は本当に学問なのか?」

という疑問を投げかける人は、あらゆる方向から反発を受けることを覚悟しなければなりません。

目次

深掘り解説

この一節では、カントが形而上学の問題を、かなり印象的な「建物」の比喩で説明しています。

ポイントは、

人間は、土台を確認する前に大きな理論を作りたがる

ということです。

そしてカント自身は、

「もう一度、建物を壊してでも、基礎から調べ直そう」

としているわけです。

「塔を建ててから壊す」とはどういうことか

原文では、

built up a tower, and then razed it to examine the nature of the foundation

とあります。

つまり、

塔を建てたあとで、それを壊して基礎を調べる

ということです。

普通なら順番が逆ですよね。

まず地盤を調べる。

土台を作る。

そのうえで建物を建てる。

しかし人間の理性は、カントから見るとそうではない。

まず、

「世界はこうできている」

「魂とはこういうものだ」

「神はこういう存在だ」

「人間には自由意志がある」

といった巨大な体系を作ってしまう。

それから後になって、

「ところで、私たちはどうしてそんなことを知ることができたのだろう?」

と疑い始める。

カントは、哲学の歴史をそう見ています。


「建物」は形而上学の体系

この比喩でいう「塔」は、

哲学者たちが作り上げてきた形而上学の体系

です。

たとえば、

「世界は最終的に何からできているのか」

「神は存在するのか」

「魂は死後も存続するのか」

といった問いに対して、哲学者は壮大な理論を作ってきました。

一つひとつの理論は、美しく整っていることもあります。

しかしカントは、

どれだけ立派な建物でも、基礎が弱ければ意味がない

と考えます。

だから見るべきなのは、

「この体系は美しいか」

ではなく、

「そもそも、この体系を支えている人間の認識能力は信頼できるのか」

ということになります。


カントが調べようとしている「基礎」

では、「土台」とは何でしょうか。

それが、

人間の理性・認識能力そのもの

です。

これまでの形而上学は、

「世界はどうなっているのか」

を直接考えてきました。

カントはその前に、

「人間はそもそも、世界について何を知ることができるのか」

を調べます。

つまり、

対象より先に、認識する側を調べる。

これまで何度も出てきたカントの方法が、ここでは「建築」の比喩になっています。


「賢くなるのに遅すぎることはない」

It is never too late to become wise

これは少し希望のある言葉です。

カントは、

今までの形而上学が間違っていたとしても、今からやり直せばいい

と言っています。

ただし、その直後に厳しいことを付け加えます。

修正が遅くなればなるほど、改革は難しくなる。

なぜなら、長い時間が経つほど、

理論だけでなく、

権威、

教育制度、

学者の立場、

用語、

伝統、

評価基準

などが、その学問を中心に積み重なっていくからです。

すると、

「もしかして土台から間違っているのでは?」

という疑問を受け入れにくくなる。

これは形而上学に限らず、どんな分野でも起こりうることです。


「この学問は可能か?」と聞くだけで、すでにかなり攻撃的

ここは非常に重要です。

カントは、

The question whether a science be possible, presupposes a doubt as to its actuality.

と言っています。

つまり、

「この学問は可能なのか?」と問うこと自体が、すでに「今あるものは本当に学問なのか?」という疑いを含んでいる

ということです。

たとえば、

「医学という学問は本当に可能なんでしょうか?」

と現代で言えば、

「え? 医学はもうあるじゃないか」

となります。

つまり、「可能か?」と問うことは、

現在存在しているとされるものの資格を疑う

ことでもあります。

カントは形而上学に対して、まさにそれをしています。

「形而上学は長い歴史がありますね」

ではない。

「それ、本当に学問なんですか?」

と根本から問い直している。

かなり挑発的です。


なぜそれほど反発されるのか

後半では、その理由が語られます。

形而上学を長年研究してきた人にとって、

「形而上学は本当に学問なのか?」

と聞かれることは、単なる学術的質問ではありません。

その人は、

何十年も研究してきた。

本を書いた。

人に教えてきた。

学者として評価されてきた。

つまり、その人の知識や立場や誇りが、

「形而上学は価値ある学問である」

という前提の上に成り立っています。

そこへカントが来て、

「そもそも、それって学問として成立しているんですか?」

と言う。

当然、反発されます。


「宝石」という表現には皮肉がある

原文では、

this supposed jewel

とあります。

「この、いわゆる宝石」といったニュアンスです。

形而上学者にとって形而上学は、

非常に価値のある宝物

です。

場合によっては、それこそが自分の知的財産のすべてかもしれない。

だから、

その宝石が実は本物ではないかもしれない、

と疑われること自体が耐えられない。

ここでカントは、人間の心理についてかなり鋭いことを言っています。

人は必ずしも、

真理そのもの

を守ろうとするわけではありません。

自分がこれまで信じてきたもの。

時間を費やしてきたもの。

自分の評価を支えているもの。

そうしたものを守ろうとする。

すると、

「本当に正しいのか?」

という問いそのものが攻撃に見えてしまう。


カント自身も、反発されることを分かっている

ここはある意味で、カント自身についての文章でもあります。

『純粋理性批判』でカントがやったことは、

形而上学の中に新しい理論を一つ加えることではありません。

形而上学そのものを審査台に乗せること

でした。

だから当然、

既存の形而上学者たちからすると、

自分たちの学問そのものを否定されたように感じます。

カントはここで、

「私は反発されることを承知でやっている」

と宣言しているわけです。


これは「スクラップ&ビルド」の哲学

この一節をもう少し抽象化すると、

カントの姿勢は、

一度作った理論に執着するのではなく、必要なら壊して基礎から調べ直す

というものです。

これは非常に「批判哲学」らしい態度です。

「批判」とは、ただ否定することではありません。

何が成立し、何が成立しないかを、基礎から吟味すること

です。

だからカントは、

形而上学を壊したいのではありません。

むしろ、

本当に崩れない形而上学を作るために、一度壊している

のです。


この一節の核心

この一節を一言でまとめるなら、

「人間は理論を作るのが好きだが、本当に大切なのは、その理論を支える土台が確かなのかを調べることだ」

ということです。

カントは形而上学の壮大な体系そのものよりも、

その体系がどうして可能なのか

を問題にします。

そして、

「形而上学は本当に学問なのか?」

と問うことは、それまで形而上学に人生を費やしてきた人たちの立場そのものを揺さぶります。

だから反発は避けられない。

それでもカントは、

遅すぎることはない。必要なら一度壊して、基礎からやり直そう

と言っている。

ここには『プロレゴーメナ』全体を貫く、

「完成された体系を信じるより、その体系が成立する条件を調べよ」

というカントの姿勢が、とてもよく表れています。

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