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形而上学が学問だというなら、それを証明しろ。学問でないなら、その限界をはっきりさせろ【Introduction】

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もし形而上学が本当に「学問」なのだとしたら、なぜ数学や自然科学のように、広く認められ、長く通用する確かな知識を築くことができないのでしょうか。

反対に、もし形而上学が学問ではないのだとしたら、なぜ今でも「自分は真理を明らかにできる」と主張し続け、人間に期待を抱かせ続けているのでしょうか。

しかも、その期待はいつまでたっても完全には満たされません。

だから、形而上学について私たちが本当に知ることができるのか、それとも知ることができないのか、そのどちらであったとしても、そろそろ一度きちんと結論を出さなければなりません。

「形而上学」というこの学問が、いったいどのようなものなのか。

今のような曖昧な状態のまま、いつまでも続けていくわけにはいかないのです。

目次

深掘り解説

この一節では、前の一節で出てきた、

「そもそも形而上学は学問として可能なのか?」

という問いを、さらに厳しく突きつけています。

カントは形而上学に対して、ほとんど「審査」をしています。

本当に学問だと言うのなら、それにふさわしい結果を見せてほしい。
もし結果を出せないのなら、なぜ学問であるかのように振る舞い続けるのか。

というわけです。

本当に学問なら、なぜ意見がまとまらないのか

カントが最初に問題にしているのは、

universal and permanent recognition

つまり、

広く、しかも長く認められること

です。

数学なら、ある定理が正しく証明されれば、基本的には哲学者ごとに結論が変わるわけではありません。

自然科学でも、もちろん理論の修正はありますが、観察や実験を通して、ある程度共有できる知識が積み上がっていきます。

ところが形而上学は違う。

ある哲学者は、

「人間には自由意志がある」

と言う。

別の哲学者は、

「すべては原因によって決まっている」

と言う。

ある人は、

「魂は不滅だ」

と言い、

別の人は、

「そんなことは証明できない」

と言う。

つまり何世紀も議論しているのに、

「ここまでは確実に分かった」

という共通の土台がなかなかできない。

カントはここを非常に重く見ています。

もし本当に科学として成立しているなら、

なぜこれほど長いあいだ、哲学者同士で意見が割れ続けるのか?

ということです。


「学問を名乗るなら、成果を見せろ」

ここでのカントはかなり厳しいです。

形而上学は長いあいだ、

「神とは何か」

「魂とは何か」

「世界とは何か」

「自由とは何か」

といった、人間にとって非常に重要な問題を扱ってきました。

だからこそ、人間は期待してしまいます。

「いつか哲学が、この問題に答えてくれるのではないか」

と。

ところが、何百年経っても決着しない。

それでも形而上学は、

「いつか答えが出る」

「今度こそ真理に到達できる」

という期待を人間に持たせ続ける。

カントはそこに疑問を向けます。

「本当に答えられるのか?
それとも、答えられるような顔をしているだけなのか?」

ということです。


「never ceasing, yet never fulfilled」が面白い

原文の、

hopes, never ceasing, yet never fulfilled

は、とても印象的な表現です。

つまり、

期待は決して消えない。
しかし、その期待が完全に満たされることもない。

ということです。

人間はどうしても、

「世界には究極的な意味があるのか」

「死後はどうなるのか」

「私は本当に自由なのか」

「神は存在するのか」

と考えてしまいます。

ですから形而上学への関心そのものは、簡単にはなくなりません。

答えが出なくても、人間は問い続ける。

ここには後のカント哲学につながる非常に重要な考えがあります。

形而上学は、人間の理性そのものから自然に生まれてくる。

だから単純に、

「答えが出ないから、もう考えるのをやめよう」

では済まないのです。

人間はまた考えてしまう。

だからカントは、

形而上学を放置するのではなく、その可能性と限界をきちんと明らかにしなければならない

と考えます。


「知ることができる」でも「できない」でもいい

ここは非常に重要です。

カントは、

何が何でも形而上学を成立させたい

と言っているわけではありません。

原文では、

Whether then we demonstrate our knowledge or our ignorance

と言っています。

つまり、

私たちに本当に知識があることが分かってもいいし、逆に、そこでは何も知ることができないと分かってもいい。

どちらでもいい。

重要なのは、

曖昧なままにしておかないこと

です。

これはカントの態度をよく表しています。

「神について知れるはずだ」

と最初から決めるのでもない。

「神について知ることなんて不可能だ」

と最初から決めるのでもない。

まず、

人間の理性に何ができるのかを調べる。

その結果、

知れるものは知れる。

知れないものは、知れない。

その境界をはっきりさせよう。

これがカントの「批判」の精神です。


カントが欲しいのは「最終判定」

原文の、

once for all to a definite conclusion

は、

この問題に一度きちんと決着をつけよう

という意味です。

何世紀も、

「形而上学は可能だ」

「いや不可能だ」

「この体系こそ正しい」

「いや、こちらの体系こそ正しい」

と繰り返してきた。

カントは、

もう同じことを延々と繰り返すのはやめよう

と言っています。

そこで彼が調べようとするのが、

「人間の認識能力そのもの」

です。

形而上学の個別問題を一つずつ論じるのではなく、

そもそも、

人間の理性はどのような仕組みで知識を生み出しているのか。
その理性は、どこまで到達できるのか。

を先に解明する。

そうすれば、

「形而上学はどこまで可能か」

にも決着をつけられるはずだと考えます。


これは「形而上学を否定する」話ではない

ここでも、カントが形而上学を単に攻撃していると読むと少し違います。

むしろ、

本当に学問として成立できる部分と、成立できない部分を分けよう

としている。

たとえば、

「人間は経験を超えた神そのものを理論的に認識できるのか」

という問題と、

「人間の理性はなぜ神という考えを生み出すのか」

という問題は別です。

前者については限界があるかもしれない。

しかし後者については、理性そのものを分析することで研究できる。

カントはこうして、

形而上学を全部捨てるのではなく、成立できる形に作り直そう

としています。


この一節の核心

この一節でカントが言っていることを一言にすると、

「形而上学が学問だというなら、それを証明しろ。学問でないなら、その限界をはっきりさせろ。もう曖昧なまま続けるのはやめよう」

です。

そして特に重要なのは、

カントが欲しいのは“形而上学の答え”より先に、“形而上学の資格審査”だということです。

神や魂や自由について答える前に、

「そもそも人間の理性は、そうした問題について答えられるようにできているのか?」

を調べる。

ここまでの序文をつなげると、カントの狙いがかなりはっきりしてきます。

形而上学は長い歴史を持っている。
しかし、歴史が長いだけでは学問とは言えない。
議論が続いているだけでも学問とは言えない。
本当に知識を生み出せるのか、その能力と限界をまず検査しなければならない。

『プロレゴーメナ』は、その検査を始めるための本なのです。

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